かちり、とかすかに響いた音に、天之橋ははっと顔を上げた。
本当にかすかな音。何故それに気付いたかといえば、彼がもう長いことじりじりと焦れながらドアを見つめていたからに他ならない。
「?」
声を掛けても、ドアは開かなくて。
一瞬だけ目を閉じて、額に拳を当てて。主治医の言葉を思い出して心に留めてから、席を立つ。
そっとドアを開けると、そこにドアノブに手を掛けたままの少女がいた。
「……お帰り、」
彼女の唇が動く前に、微笑んで手を取って。
「ずいぶん長かったね。疲れたかい?お茶を持ってこさせようか」
「……………いえ、大丈夫です。えっと……あ、っ」
思い出したように足を踏み出しかけて、ふらりとよろめく。
それを優しく抱き留めて、天之橋は自分の腕にかかる髪をなでつけた。
「……やはり疲れたんだね。指先が冷たくなっているよ」
「あの……あの」
抱きしめようと腕に力を込めると、少女はその力に逆らって彼を見上げた。
その何とも言えない瞳を、しばらく見つめてから。
黙ったまま彼女を抱き上げ、そっとソファに座らせる。
「……ぁ……あ、天之橋……さん……」
少女は掠れた声で彼を呼ぶ。
その青ざめた頬を、ゆっくりとなぞって。
つめたくなっている手を、握ってあたためて。
「………わ、私…あ…の……っ……」
辿々しく呟く彼女の唇に、そっとキスを落とす。
言葉が出なくても、冷静に受け止められなくてもそれを話そうとしてくれることがただ、嬉しいから。
そのまま彼女の足元に両膝を突き、天之橋は自分を抱きしめるようにして震えている彼女の手を取った。
「」
「わ…わたし……あの……わたしっ……」
「。先に、私の話を聞きなさい」
「…………?」
我に返ったように自分を見返す少女に、穏やかな笑みを向けて。
誤解されることなく思った通りに伝えられますようにと心の中で祈りながら、天之橋は彼女の指に口づけを落とした。
小さく震える右手の薬指に嵌められた、銀色のリングに。
「私と結婚してくれないだろうか」
瞳を伏せて自分の指を見つめていた少女は、しばらくして初めてその言葉が聞こえたかのように、小さく身じろぎをした。
「………ぇ…、………?」
ぱちぱちと目を瞬かせて。
必死でその意味を理解しようとする彼女が、真意を取り違える前に、まっすぐに瞳を見返す。
「君が今、話そうとしてくれたことを決めるのは……君に任せようと思う」
「!?」
「いや……誤解しないでほしい。決して、どうでもいい訳ではないよ。
……ただ、君の身体が一番大事だから……何よりもそれを優先して考えてほしいんだ。
年齢も状況もあるのだし、どんな選択をしても間違いではない。それだけは、誰にも文句は言わせない。
それに」
言葉を切って、もう一度微笑んで。
「君がどちらを選んでも……私の答えはもう、決まっているから」
「……あ、ま……?」
「私の妻になってほしい。断られても、何度でも申し込むよ。
そばにいて、一緒に歩いてほしい人はもう、ずっと前から……君以外に考えられなかった」
「……………………・・・」
こぼれそうに瞳を見開いて、少女は絶句した。
まさか、こんな言葉がしかも打ち明ける前に返ってくるとは、思ってもみなかったから。
混乱した思考が頭の中で渦を巻き、くらくらと眩暈がする。
けれど。
それでも、降って湧いたようなその言葉に頼り切ってはいけないと……心の奥で声が聞こえる。
もしかしたら、これで皆が不幸になるかもしれないのだから。
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