そうして、どのくらい時間が経ったのか。
考えすぎてうつうつと眠りかけていた少女の耳に、チャイムを鳴らす音がかすかに聞こえた。
尽が帰ってきたのかと思い、半分夢の中で顔を顰める。
今は、何を言われても真面に返せそうにない。頼むから今日はこっちにこないでと祈る彼女に構わず、階段を上る音がして、コンコンと無遠慮なノックの音が響いた。
しかし、それは尽ではなく。
『〜?いるのー?』
弟よりも更にタチが悪い、母親の声。
そして、無視を決め込んだ少女に、彼女はおかしそうな口調でとんでもないことを口にした。
『天之橋君、来てるわよー』
「!!??」
『なに、ケンカでもしたの?なんか落ち込んでるっぽいけど』
「……わ、私、行かないからね!!」
思わず反応してしまった、動揺した声に。
水月はドア越しでも気配を感じるくらいほくそえんで、してやったりと言葉を継いだ。
『そう言うと思って、二階まで連れてきてます』
「は!!??」
『天之橋君、ここがの部屋だから。どうぞー』
朗らかにドアを開けられそうな台詞に、思わずダッシュしてドアを押さえる。
軋みそうなほど押さえたドアの向こうで、今一番声を聞きたくない人がおずおずと口を開いた。
『……?』
「…………!」
『すまない、突然訪ねてきて……その……』
いつもよりだいぶん歯切れが悪いのはおそらく、横で水月が聞いているせいだろう。
頼むからおかぁさんの前でそんなことバラさないで、と思う心も知らず、天之橋は訥訥と話を続ける。
分かっている。
彼がそんなつもりじゃないことも大事にしてくれているのも、分かってる。でも。
今は不機嫌な時なんだから、そっとしておいてくれればいいのに!
明日だったら素直に謝ることもできるけれど、今は無理。絶対に無理。
無言のままの自分に、天之橋がため息をついたのが分かった。
少しの間の静寂。
もしかしてこのまま帰ってしまうつもりなんだろうか、そんなことをされたらもう顔を合わせられない、けど今謝るのはとてもできない。
ぴりぴりと張りつめた気持ちで聞き耳を立てていたドアの向こうで、足音がして。
少し遠ざかった所で、小さく囁くような声がかすかに聞こえた。
『あのねえ、天之橋君。怒ってる女の子には謝りゃいいってもんじゃないよ?』
『はあ』
『は意地っ張りだから、時間置いて明日くらいに電話して謝ればすんなりコトは済むのよ』
『……まあ……そうだとは思ったんですが……』
『なに?直接謝らないと気が済まないって?』
『それもありますが。……明日電話したら、彼女はきっと謝ってくると思いましたので』
『?そりゃ謝るでしょーよ、そんだけ言ったんなら今頃きっと自己嫌悪の嵐だわ』
さりげなく自分を弁護してくれている母親に、少しだけ気を落ち着けた、彼女に。
『……それでは駄目なんです』
『ん?』
『悪いのは私ですから、彼女が怒っている間に謝らないと』
『……はあ?』
『明日になって、私も悪かったんですと謝る彼女を待つのは情けないと思いませんか』
ドアの向こうで、天之橋が笑っているのが見えた。
自分の怒りを軽んじている訳でもなく、面白がっている訳でもないけれど。
どこか倖せそうな笑みを浮かべて、照れ臭そうに母親に言い訳する姿が見えた。
「………。」
一気に脱力して、少女はぺたんと床に座り込んだ。
もうなんだか気が抜けた。不器用にも程があると思うし、それでこっちの怒りを増幅させてどうするんだとも思うし、寒いからそんなことを母親に語るなとも思うし、こっちも謝りたいんだから謝らせてよとも思う。
けれど、そんな彼のぎこちない愛情が、おかしかったり嬉しかったりするのも本当。
深い深いため息を一つだけつき、少女は怒るのを諦めた。
自分とは次元が違う考えに、意地を張っているのがバカらしくなってきたから。
この人のこれにはきっと、一生敵わないと思う。
「……!?」
かちゃりとドアを半分開けると、天之橋は慌てて廊下を走ってきた。
それが妙におかしくて、逆に笑いを堪えてしかめ面を作る。
「、すまない。君を一個人として見ていない訳では決してないが、君の言う通り、私の態度が悪かったよ」
「……もういいです」
「けれど……」
「もう怒ってないです。ちょっと機嫌が悪かっただけですから……それより」
少しだけ考えて、不安そうな彼を見上げて。
「反省したのなら、明日の行き先は考えてきましたか?」
偉そうな台詞を吐いて、堪えきれずに小さく笑うと、天之橋は途端に生き返ったような顔をした。
「あ、ああ!もちろん!……その、もしかしたら、君はあまり気が進まないかもしれないけれど」
「いいです、私はそういうのが聞きたいんですから」
「では、招待して頂けるかな」
「?」
不思議そうに首を傾げた少女に、もういつもの笑顔に戻って言う。
「君の部屋で、君の淹れたお茶が飲みたいのだが」
「……!!」
一瞬で、自分の部屋の現状酷く散らかってはいないけれど、客を入れられる状態ではない様子が思い出されて、かあっと頬に血が昇った。
それを、いつものようにおかしそうに見る瞳。
きっと最初からここまで考えていたに違いない、と苦々しく思いながら、少女は部屋の中が見えないように廊下に出てドアを閉めた。
「……分かりました。でも今日はだめです。明日ですからね!?」
「では、今日は帰るよ」
「……えっと。下でなら、お茶くらい淹れますけど」
負けを承知でそう言うと、天之橋は嬉しそうに笑って。
ふと少女の手の傷に気付いて、何も言わずにそこへキスを落とした。
「そ、それから。おかぁさんに色々喋ったり、おかぁさんの前でこういうことは禁止です!」
廊下の向こうでニヤニヤと笑いながら見ている母親に聞こえないように小声で言うと、それでも避けられはしない手にもう一度キスを落として、天之橋は笑いながら頷いた。
FIN. |