その日、少女は朝からとても機嫌が悪かった。
前の日に大学でついてないことが重なって。家に帰ったら、たまたま弟にからかわれて。
それが本当に図星だったから、余計に腹が立った。
負の感情が持続しない少女にとって、寝て起きてもまだイライラしているというのは、本当に珍しいこと。
「……ダメだ……こんなんじゃ」
昼過ぎ、気分転換にと読んでいた小説から目を上げて、少女は小さくため息をついた。
お気に入りの小説も、大好きな紅茶も、今日は全然助けてくれない。
楽しいはずの連休が無駄に浪費されていくような気がして、またイライラがつのってくる。
その時。
聞き慣れた着信音が鳴って、少女はぴくりと肩を揺らした。
「……………」
今、この状態で出るのは、まずい。
けれど、居留守などできるはずがないし、何か急な用かもしれないし。
一息だけ呼吸を整えてから、少女はなるべく平素と変わらない声で電話に出た。
「……はい」
『?今、大丈夫かな?』
「はい。こんにちは、天之橋さん」
機嫌の悪さを悟られないようにと思うと、殊更に声が笑みを含んでしまう。
少し不思議そうな声音で挨拶を返した彼は、しかしそれを気にした様子もなく話し始めた。
『明日、何か予定は入っているかな?』
「……いえ、別に何も……」
『よかった。もしよければ、一緒に出掛けないかね?
本当は先週誘おうと思ったのだけれど、今の今まで予定が立たなかったから』
急ですまない、と謝られて、少しだけ気持ちが軽くなる気がする。
「いいえ、嬉しいです。でも……予定が立たなかったのなら、お忙しいのではないですか?」
『そんなことはないよ。ただ、仕事の合間に会うようなことはなるべくしたくなくてね。
君となら、ゆっくりと過ごしたいと思うから』
素で言われる台詞に、少女はくすくすと笑った。
「じゃあ、明日はのんびりしましょう。とりあえず、どうしますか?」
『君はどうしたい?』
「……えっと。のんびりするなら、天之橋さんちでお茶とか……?」
言うと、電話の向こうで笑われた気配がした。
『別にのんびりしなくても構わないよ。どこでも行きたい所を言うといい』
「天之橋さんは、どこに行きたいんですか?」
『私は君の好きな所で良いから』
「……でも、意見くらいは教えてください」
『そうだね。君がこの間行きたいと言っていた映画がそろそろ公開じゃなかったかな?』
「私のことじゃなくて、天之橋さんの行きたいところを知りたいんです」
だんだん雲行きが怪しくなってきたのを自覚しながら、懸命に声音を抑える彼女の言葉を。
そうとは知らない天之橋は、何気なく聞き流して受け答えた。
『私は、君が傍にいてくれるだけで良いから』
ぶち、と頭の中で弾ける感触がして。
堰き止めていた感情が溢れ出すのを堪えたけれど、もう間に合わなかった。
「……そうですか。じゃあ天之橋さんは、私と一緒ならどこでもいいって言うんですね?」
『え?』
「映画でも水族館でもプラネタリウムでも公園でも、どこでも一緒だって」
『い、一緒とまでは、言わないけれど』
「言ってるじゃないですか。そういうのって、考えなしだと思いません!?」
前々からずっと、思ってはいたこと。
傍にいてくれるだけでいい、という台詞は、言葉面は良いけれど意味を考えると決して嬉しい言葉ではないと思う。
自分は、ただ傍にいるために恋人でいる訳ではない。一緒に色々なことをして、見て、考えて、楽しいことも哀しいことも全て分け合って、何かをつくっていきたいと思っているのに。
彼のそれはまるで、恋人としての彼女ではなく片思いの相手に言っているかのような台詞だった。
それが彼の癖だということは分かっている。無意識に何かに負い目を感じて、気を遣ってそれが自分を好きでいてくれるからこそ、なのも分かってる。
けれど。
それが、恋人としての自分の人格を無視している、とは思わないのだろうか?
「天之橋さんはいっつもそうです!私、天之橋さんが傍にいてくれるだけでいいなんて思ってませんからっ」
『……?』
少し掠れた不安そうな声音が聞こえるけれど。
溢れ出す言葉は、制止が効かない。
「私は、天之橋さんと一緒に色んなことをしたいです。映画を見るなら、どうして見たいのかとか、評判を聞いたとか、
これはこうだから止めた方がいいかもとか。そういうのを一緒に考えるから楽しいんじゃないんですか?」
『……………』
「何を言っても何を話しても“そうだね”しか言わないのって、私を一個人として見てないって思いませんか!?」
『……………』
「そういうのって、なんか……なんか、観察してるだけみたいじゃないですか!わたし、お人形さんじゃありません!」
『そ、そんなことは!』
「天之橋さんがそういうつもりなんだったら、出掛ける気はありませんから!」
『……』
「じゃあ!」
がち、とヒンジが壊れそうなほど勢いよくケータイを閉じて。
荒くなった息を整えて、はっと我に返った。
「あ…………。」
考えてもいなかった最悪のパターン。
それは実際、在学中からずっと思っていたことなのだけれど。
機嫌が悪くさえなければ、こんなに手酷く責め立てはしなかったはず。
不機嫌に任せて彼に当たってしまったことに疑いの余地はなくて、少女は自己嫌悪で涙目になりながらベッドに倒れ込んだ。
「もー知らない!私悪くないもん!天之橋さんが悪いんだもん!
大体なに、いっつもどこでもいーとか言っちゃって、それって真面目に考えてないだけじゃない!」
どこでもいい、とは一回も言ってないけど。
「君の好きなところで良いよとか、ワンパターンだし思考停止してるっぽいし!」
出掛けた先では、いつもちゃんと考えて話したり教えてくれたりするけど。
「わ、わがままとか全然言ってくれないし。私ってそんなに頼りにならないって言うの!?」
そう、なんだろうなあ……。
心のどこかで呟く冷静な自分と口論して。
結局勝てなかった少女は、ますます苛立ってボスンと枕を殴りつけた。
ボスボスと何度もやっているうちに、勢いあまってベッドの木枠に拳がぶつかる。
「痛っ!……」
涙が出るほど痛かったけれど、血が出ていないことを確認しただけで、少女はそのままベッドに俯せた。
頭に血が昇っている時は、どこかが痛いと気が散っていいかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思って、ぐるぐると渦を巻く感情を野放しにして落ち着くのを待つ。
心の隅で、どうやって謝ろうかと考えながら。
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