「……おかぁさん。お茶」
「あら、ありがと」
しばらくして、トレイを持って戻ってきた少女は、少し乱暴な手つきでお茶を淹れ始めた。
「そんなのでいいの?大好きな天之橋君に飲んでもらうのに」
「いーのっ!」
そのとき初めて、天之橋は少女が不機嫌なことに気づいた。
「……どうか、したのかね?」
「どうぞ」
問いには答えず、目の前に置かれるティーカップ。
お茶を配り終わった少女は、自分の座っていた席を素通りして彼の隣にぽすんと腰掛けた。
「?」
母親の目が、すっと細くなる。
「お客さまに失礼でしょ。お伺いもしないで」
少女の普段の所作から、家庭できちんとした躾を受けているのだとは思っていたが、その雰囲気の変化に天之橋は驚きを隠せない。
少女は唇を咬みながら俯き、“座っても良いですか?”と小声で彼に言う。
「あ、ああ。それは構わないが……気分でも悪いのかね?くん」
バッ、と少女が顔を上げる。その表情を見て、天之橋はしまったと思った。
二人きりでない時はどうしても出てしまう、その呼び名。
『おかぁさんは名前で呼んでるのに、どうして?』と。
その瞳が語っていた。
参ったな。
ゆっくりと天井に視線を移しながら、息をつく。
どうやら少女は、母親と彼の親密さにヤキモチを妬いているらしい。
「あー…その、だね。これはべつに、意図があるわけではなくて……」
「天之橋さん」
言い訳がましい彼の言葉を。
少女は、硬い表情で遮った。
「私。天之橋さんに好かれてると思っていいんですよね。ずっと傍にいてくれって、言いましたよね?」
「?」
思わず少女をそう呼ぶと。
彼女は、決心するかのように胸の前で手を握りしめた。
「じゃあ。親の前で、プ、プロポーズとか……してくれてもよくないですか?」
「!!」
「へぇ?」
二人の反応が、面白いように二分された。
彼女の母親は笑いながら、状況を見守っていて。
天之橋はというと、どうしていいのか分からない様子で目を白黒させている。
少女がいきなりこんなことを言い出すとは、夢にも思ってなくて。
うまい言葉が思いつかない。
「……やっぱり……だめ、ですか?」
今にも泣き出しそうな、彼女の瞳。
間近でそれを見せられて、天之橋は多少のめまいを感じた。
そんな目で見るのは……反則だと思う。
沈黙の後、彼はため息をついて、小さな手を取った。
「……できない」
「!」
ぎゅっと目をつぶった少女に気づかれないように。
天之橋は、スーツのポケットに手を入れる。
今日渡してしまうつもりは……なかったんだがな。
「まだ未成年の君の未来を、縛ってしまうつもりはないよ。だから」
すっ、と。その指に滑り込ませた金属。
「これは。約束ではなくて、一方的な誓約だよ。いいね?」
冷たい感触に、少女が目を開いた。
その目に滲む雫を指で拭いながら、天之橋は優しく微笑む。
「君がもう少し年を重ねて、本当に私と一緒にいたいと思ってくれたら。
その時は、私が君を迎えに行くよ。たとえ、親御さんに許可をもらえなくても」
指にはめたリングに口づけを落としながら、ちら、と母親を見る。
「絶対に。君を離さない」
「天之橋さん!」
がば、と。
思い切り抱きつかれて、ソファに背を埋もれさせながら。
天之橋は、感嘆したような表情の母親に照れ笑いをする。
彼女はピュッと口笛を吹き、親指を立てて、彼の行動を賞賛してくれた。
「そういう涙以外を流させたら、許さないよ。天之橋君」
あえてそう口に出す母親は、大学時代には見たことのない表情をしていて。
守ってきたものを手放す瞬間というのはこういうものかと、妙な郷愁を彼に感じさせた。
FIN. |