「…………おかぁさん」
立ち止まったままの自分を後ろで急かしている母親に、少女の口は勝手に応えた。
その言葉の意味も、分からないまま。
「私……行けないよ」
呟いた後で反芻する。
行けない?どうして?
「?なに言ってんの?」
訝しげに問いつめる声に、やっと、自分の意志で言葉が出た。
「私……忘れてるの。なにか。忘れたら生きてけないなにかを、忘れてる。
でもそれは、私が……私が自分で、自分から、鍵を外さなきゃいけない。
誰かに思い出させてもらうんじゃ、意味がないの」
「……?」
訳が分からない、といった感じの母親に。
「……離れたく……ないの。……おかぁさん達と一緒にいるよりも、あのひとと一緒にいたい。
あのひとと離れたら私、……私じゃなくなっちゃうから……だから」
ごめんなさい、と言いかけた彼女の瞳に。
遠ざかっていると思った彼が、一つしかないゲートに駆け寄って身を乗り出し、自分を見上げるのが映った。
「!!」
警備員に止められて。
それでも構わずに、少女を求める声が。
今度こそ、彼女の元に届く。
それを娘越しに見やって、水月は目を見開いた。
一瞬絶句して、なにかを言いかけて。
ゆっくりと、ため息をつく。
「……一ヶ月に一回は、帰って来るから。戸締まりと火の元には気をつけるのよ」
それだけ言って、彼女はひらひらと手を振りながら搭乗口に消えていった。
荷物を放り出して、走る。
数人の警備員に取り押さえられ、引きずられて行きかけている、彼の元へ。
失った記憶にもなかったはずの、自分を求めて形振り構わない彼の元へ少女が再び戻った時。
厚いガラス越しに、手を重ねた時。
天之橋は、少女の唇が確かに動くのを見た。
あ ま の は し さん
警備員の怒号が響く中、変わらぬ彼女の声だけが、天之橋の耳に聞こえた。
何度も何度も。
信じられない瞳をした彼が、弾かれたように警備員を振り切り、ゲートを飛び越えて彼女の傍に戻るまで。
「!?」
まだ、揺れている声音。その名を呼んでいいのかどうか。
それに応えるように、少女はあるだけの力で彼にしがみついた。
「天之橋さん天之橋さん天之橋さんっ!」
やっと音を伴って聞こえた呼び名に、ちいさな体を隠してしまうほど強く抱き竦めて、髪に顔を伏せる。
かくり、と。
力が抜けて、床に膝をついた。
「…ひど…っ……ど…して、行くな……て…言ってくれな…いの?……私、わた、し……もう少しで……っ」
胸を叩かれる息苦しさが、倖せ。
彼女が確かにそこにいると、感覚のすべてで感じられるから。
「……すまない……。もう、離れないから。……離さないから」
少女をあやすためではなく、抑えていた心情を吐露するように。
抱きしめた背を握り込んでそう言った彼に、泣きじゃくりながら、少女が小指を差し出した。
「約、束……して……!」
「ああ、約束だ。何があろうと絶対に」
君を離さない。
途切れた台詞は、彼女の唇に吸い込まれて、ふんわりととろけた。
呆気に取られている警備員たちと、『VIPの天之橋様が搭乗ゲート付近で暴れています』との連絡で駆けつけた、馴染みの空港職員に。
彼は泣き続ける少女を抱きしめたままで、倖せそうに小さく微笑った。
「……騒がせて申し訳なかったね。これから生きていけるかどうかの、瀬戸際だったものだから。」
◇ ◇ ◇
もう星が輝く時間、空港の駐車場。
泣き疲れて眠ってしまった少女を抱いたまま、彼は車に乗り込んだ。
少しの間、思案して。
自宅に向かってゆっくりとアクセルを踏み込む。
小指は、ずっと繋いだまま。
FIN. |