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 届かない言葉を君に 10 

「…………おかぁさん」
立ち止まったままの自分を後ろで急かしている母親に、少女の口は勝手に応えた。
その言葉の意味も、分からないまま。
「私……行けないよ」
呟いた後で反芻する。

行けない?どうして?

?なに言ってんの?」
訝しげに問いつめる声に、やっと、自分の意志で言葉が出た。
「私……忘れてるの。なにか。忘れたら生きてけないなにかを、忘れてる。
 でもそれは、私が……私が自分で、自分から、鍵を外さなきゃいけない。
 誰かに思い出させてもらうんじゃ、意味がないの」
「……?」
訳が分からない、といった感じの母親に。
「……離れたく……ないの。……おかぁさん達と一緒にいるよりも、あのひとと一緒にいたい。
 あのひとと離れたら私、……私じゃなくなっちゃうから……だから」
ごめんなさい、と言いかけた彼女の瞳に。
遠ざかっていると思った彼が、一つしかないゲートに駆け寄って身を乗り出し、自分を見上げるのが映った。


!!」


警備員に止められて。
それでも構わずに、少女を求める声が。
今度こそ、彼女の元に届く。

それを娘越しに見やって、水月は目を見開いた。
一瞬絶句して、なにかを言いかけて。
ゆっくりと、ため息をつく。

「……一ヶ月に一回は、帰って来るから。戸締まりと火の元には気をつけるのよ」
それだけ言って、彼女はひらひらと手を振りながら搭乗口に消えていった。


荷物を放り出して、走る。
数人の警備員に取り押さえられ、引きずられて行きかけている、彼の元へ。
失った記憶にもなかったはずの、自分を求めて形振り構わない彼の元へ少女が再び戻った時。
厚いガラス越しに、手を重ねた時。
天之橋は、少女の唇が確かに動くのを見た。

 あ ま の は し さん 

警備員の怒号が響く中、変わらぬ彼女の声だけが、天之橋の耳に聞こえた。
何度も何度も。
信じられない瞳をした彼が、弾かれたように警備員を振り切り、ゲートを飛び越えて彼女の傍に戻るまで。

!?」

まだ、揺れている声音。その名を呼んでいいのかどうか。
それに応えるように、少女はあるだけの力で彼にしがみついた。
「天之橋さん天之橋さん天之橋さんっ!」
やっと音を伴って聞こえた呼び名に、ちいさな体を隠してしまうほど強く抱き竦めて、髪に顔を伏せる。
かくり、と。
力が抜けて、床に膝をついた。

「…ひど…っ……ど…して、行くな……て…言ってくれな…いの?……私、わた、し……もう少しで……っ」
胸を叩かれる息苦しさが、倖せ。
彼女が確かにそこにいると、感覚のすべてで感じられるから。
「……すまない……。もう、離れないから。……離さないから」
少女をあやすためではなく、抑えていた心情を吐露するように。
抱きしめた背を握り込んでそう言った彼に、泣きじゃくりながら、少女が小指を差し出した。
「約、束……して……!」
「ああ、約束だ。何があろうと絶対に
君を離さない。

途切れた台詞は、彼女の唇に吸い込まれて、ふんわりととろけた。


呆気に取られている警備員たちと、『VIPの天之橋様が搭乗ゲート付近で暴れています』との連絡で駆けつけた、馴染みの空港職員に。
彼は泣き続ける少女を抱きしめたままで、倖せそうに小さく微笑った。

「……騒がせて申し訳なかったね。これから生きていけるかどうかの、瀬戸際だったものだから。」

  

◇     ◇     ◇

  

もう星が輝く時間、空港の駐車場。
泣き疲れて眠ってしまった少女を抱いたまま、彼は車に乗り込んだ。

少しの間、思案して。
自宅に向かってゆっくりとアクセルを踏み込む。



小指は、ずっと繋いだまま。

FIN.

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