「?そろそろ入るわよ」
「うん……なつみん、来るって言ったんだけど……」
きょろきょろと雑踏を見回しながら、少女は困った様子で母親を見上げた。
「後で、手紙書いたら?」
「……うん……」
返事はするものの、ベンチに座ったまま少女は動かない。水月はため息をついて立ち上がった。
「先に行ってるわよ。尽とお土産買ってるから、早く来なさいね?」
「分かった」
答えながら、相変わらず周りを見渡す娘に肩をすくめて、水月はゲートに入っていった。
それをちらと見送って、少女は小さく息をついた。
どうして、足が動かないんだろう。
どうしてこんなに胸が痛いんだろう?
何か、とても大切な事があった気がする。
ずっと、何か足りない気が……
その時、何故かずっと見つめてしまっていたエスカレーターを上がって、見覚えのある人が一直線に近づいてきた。
心臓がドクン、と跳ねる。
彼女の三歩前で止まって、彼は優しく微笑んだ。
「くん……見送りに来たよ」
少女の目が見開き、動かなかった足が反射的に席を蹴る。
「理事長!……わざわざいらしてくださったんですか?あの、お休みしてるって聞いて……もしかして、お体でも?」
自分を心配する少女に、笑ってみせる事などなんでもない。
穏やかな声を作り、学園の理事長を演じる事。
ここへ来る事を許される為に、自分に課した条件。
「いや、たいしたことはない。少し風邪をひいてね。……あまり近寄ってはいけないよ、感染ると大変だから」
手の届くところに来れば、攫ってしまいそうになる。
彼女が怖がるのを知っているのに、触れたくなる。
衝動を戒めながら『演じる』彼に、少女は昔のように、笑った。
「平気です。私……多分、理事長を待っていたような気がします。すごく……落ち着いた、から」
その笑顔に、抱きしめようと動く手を抑えきれなくなった、瞬間。
甲高いアナウンスが、ロビーに響いた。
「それじゃあ、母が待ってますから。……ありがとう、ございました」
「あ、ああ。……元気で。君はいい子だから、向こうでもきっと愛されて倖せになれるよ。
けれど、私が一番………」
誰よりも、君のことを愛しているから。
人々のざわめきにかき消された呟きに、彼女は不思議そうな顔をして。
それでも、笑ってみせると安心したように微笑みを返して。小さく頭を下げてゲートを通り、オレンジ色の夕暮れの中を離れていく。
音を通さない厚いガラスの向こうを、母親と並んで人混みに紛れる、最愛の少女。
あんなに喜んだ約束も、取り残したまま……。
これで良いのだろうか。
それが彼女の倖せならどんなことでもできると、ずっと思っていたけれども。
これが彼女の倖せでいいのだろうか。
この先。
彼女が、倖せだと。
自分に代わって、誰が保証してくれるのだろうか?
「………………」
もはや呼ぶことが許されない名前は、ガラスの壁に阻まれて届かない。
「」
ガツ、と。邪魔なガラスに両手をつく。
まるでそれこそが、彼女と自分を隔てるものだとでもいうように憎々しげに睨み付けて。
「」
届かないことは分かっている。
「!」
なのに。
視線の先で少女は確かに、こちらを振り向いた。
彼女の記憶以上のものを悟らせてはいけない彼と。
それ以上の彼を探ろうとする、彼女。
お互いに目的が達せられないままに、視線が絡んで。
先に耐えられなくなったのは、思慮も分別もあるはずの、彼の方だった。
視線を逸らして足早に自分から遠ざかっていく天之橋を見て、瞳が潤む。
何故かは分からない。日本に対する、感傷?今までの生活が恋しいから?
記憶が許す理由は、いくらでも思いつくのに。
それに納得してしまうことを、許さない自分がいる。
幾筋も幾筋も涙が頬を伝い、冷たい床に落ちていく。
彼が、諦めたら。
自分も諦めるしかない?
そのとき、初めて。
少女は自分に、忘れていることがあることに気づいた。
絶対に。
なにか。
忘れている。
忘れてはいけない、なにかを。
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