「くん!」
思わず、声が高くなってしまう。
呼ばれた少女はぴくりと体を揺らして、躊躇うような素振りを見せた後、ゆっくりと振り向いた。
「……理事長。御用ですか?」
微笑みを絶やしたり礼儀を失したりはしない。
でも、その態度はどう見ても他人行儀で。
天之橋が訊こうとしていた色々なことを、封じてしまう何かがあった。
「……いや……その、美味しいお茶が手に入ったのでね。……飲みに来ないかと思って」
平素よりも大分、意識して抑えた台詞。
しかしそれさえも今の彼女には疑問だったらしく、少し眉が顰められた。
「お茶……ですか?どうして私に?」
「………え?」
「あ、もしかして、何かお話が?」
生徒が特別に理事長に呼ばれるなど、あまりいいことが待っているとは思えない。
そんな考えを少しだけ覗かせた彼女に、天之橋は絶句した。
「……?あの、理事長?」
その呼び名にも、ずきりと痛みが走る。
実際、天之橋にとって何もかも訳が分からなかった。
先週は、いつもと同じだったはずなのに。
週が明けてみたら、突然彼女の態度が変わっていた。
なにか怒らせるようなことをしてしまったろうかと、考えてはみたけれども、思い当たることはなくて。
たとえ怒っていたとしても、こんな当てつけのように自分を無視したりする彼女とも思えない。
「どう……、したの……かな」
「え?」
ポツリと呟かれた言葉に、首を傾げて。
苦しげな表情をした彼を、少女は不思議そうに見る。
「理事長?……御気分でも悪いのですか?」
「……っ!」
堪えきれず、天之橋がいつものように頬に指を滑らせかけた、瞬間。
ビクリ、と少女の体が大きく震えて。
目が見開かれ、足が後退った。
その瞳には見たことのない、畏怖の色。
全てを拒絶するような。
何もかも、否定するような。
あの、照れたように微笑む暖かい瞳は。
もうどこにも……ない。
「ー!」
後ろから掛けられた声に、心底ほっとする表情を隠さずに。
少女は、急いで振り向いた。
「なつみん!……し、失礼します!」
形式だけの礼をして、駆け出す。
その姿が、奈津実となにか話して頷いて、廊下の向こうに消えるまで。
天之橋は、身動きすることも出来ずにその場に硬直したままだった。
「理事長」
いつの間にか、そばまで来ていた奈津実が、言いにくそうに声を掛ける。
それに。うまく反応できない。
「あのコ……覚えてないんです。理事長のこと……」
「……!??」
「何にも……多分、階段から落ちたことが原因で。詳しいことは、芹沢先生からお話があると思いますけど」
ショックを隠せない彼の様子が、痛々しくはあったけれども。
自分に出来ることは、もう、これしかない。
奈津実は顔を上げて、まっすぐに彼を見据えた。
「夏休みに入ったらすぐ、親の都合でフランスに行くって……多分、それがあまりにも辛くて、それで……」
「………藤、井…くん?」
「無理に思い出させようとしたら……悪化する可能性も、あるそうです。だから、あのコを……追い詰めないでください」
もう、近づかないでください。
言外にそう言って。
自分の言ったことに、唇を噛み締める。
もう時間がない。
元に戻るかどうかも、分からないなら。
悪化しない方を、選ぶしかない。
「ごめんなさい」
少女の代わりのように、呟いて。
奈津実は、その場を後にした。
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