「アタシも……まだ、信じられないんですけど」
話し終わった奈津実は、椅子をぎしっと軋ませて背もたれに体を預けた。
何をどうしても、ため息しか出ない。
「…………」
相談された方は、じっと考え込んでいる表情。
こんなことを話して、信じてもらえるかどうか不安だったけれど。
同じように彼らを容認し応援していた奈津実が、こんな嘘をつくはずがないことを、養護教諭は分かっているようだった。
「そうね。にわかには……信じがたいけど」
そう、前置きして。現状を分析する。
「……理事長、のことは分かるのね?はばたき学園の天之橋理事長」
「ええ、普通に挨拶してましたから」
「でも、さんにとっての『天之橋さん』のことは覚えていない?」
「応える声もすごく他人行儀で……、理事長だってコトは知ってるけど、それ以外は知らない一般生徒、ってカンジで」
「で、会いたくない……のね」
「そうなんです。……こんなことって」
途方に暮れた奈津実の声に、養護教諭もため息をついた。
「私も専門外だから断定はしないけれど……前に、似たような症例を聞いたことはあるわ」
その言葉に、奈津実は目を見張って体を乗り出した。
「えっ!?ど、どんな!??」
「俗に言う、記憶喪失の一例」
「記憶……喪失?」
ドラマやマンガでしか聞いたことのないそれに、奈津実の表情が強張る。
そんな彼女に頷いて、養護教諭はさらに言葉を継いだ。
「そう。記憶喪失ってね、全部忘れてしまう訳じゃなくって、ある事項に関わることやある時の前後を忘れてしまう例も多いのよ。
例えば、あんまりショックな出来事があって、それに関することだけ全て忘れてしまうとか。
精神を防護するため、と言われているけれど……それを覚えていたら生きていくのに差し支えるということね」
「…………、が?理事長と離れることを覚えてたら、生きていけない?そんな、でも……!」
親友を思って反駁しようとした奈津実に、養護教諭は分かってると言いたげに手をかざした。
「そうね。正常な彼女であれば、逃げなんて選ばない。でも、いずれ乗り越えられる辛さも、その瞬間にはMAXだったはずよ。
精神的にショックを受けた瞬間、体にもショックを受けて、彼に関する記憶を消してしまった可能性はあるわ」
奈津実は唇を噛んだ。そうだ。平素の彼女であれば、そんな逃げるようなことをするはずがない。
一緒にいられないなら、忘れてしまえばいいなんてそれではあまりにも、救いがないではないか。
「会うのを嫌がるのはそのせいね。防護本能で消された記憶が、蘇ってしまうかもしれないから。
蘇ったら……生きていけないかもしれないから」
以前の彼女の、倖せそうな笑顔。フランスに行くことが決定している彼女にとって確かに、その記憶は『生きていくのに差し支える』かもしれない。
でも。それでも。
「芹沢先生。元には……戻らない、んですか?」
奈津実にはどうしても、それが正しいことだとは思えない。少女のためだとは思えなかった。
養護教諭は、その質問にまた、ため息をついた。
「……分からないわ。いつか戻るかもしれない。一生このままかもしれない。
普通、記憶喪失の患者には忘れたことに関する物を見せたりして回復を促すのだけれど……それは無理、でしょう?」
彼に会うのさえ嫌がる、少女。
無理をさせることだけは絶対に出来ない、彼女はそれを強調した。
精神の病は難しい。嫌がることを無理にさせたら、ますます酷くなるかもしれない。
万が一にでも、何もかも忘れてしまうということにならないとも限らないから。
でも、そうしたら。
少女の親友として、自分には何ができるんだろうか?
奈津実は俯いて、こぼれそうな涙を隠した。
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