「…………………?」
今頃アイツは平謝りに謝って、ちゃんと仲直りしているはず。
月を見ながら酒でも呑んで、めでたい自分にご褒美をあげようと庭に出た時。
庭の奥から微かに聞こえてきた細い声。
いぶかしく思いながら、しげみの向こうに足を踏み入れた。
「…………花椿…せんっ…っ…」
噴水の縁に座ったまま、ビクリ、と怯える少女。
自分を確認して、子供のように両手を差し出した。
今まで見てきた中で初めての、その仕草に驚いて。
慌てて小さな身体を、すっぽりと腕に入れた。
「どうしたって言うのよ?何があったの、言ってみなさい?」
「…っ……あまっ…はしさんの…っ……部屋に…ぃ…っ…た…」
彼女の背中を優しく叩きながら話を聞いたが、さっぱり要領を得ない。
どう慰めて励まそうか、と考えるうちに、だんだんもどかしくなった。
本気で泣くのも、笑うのも、アイツのもの。
少女の感情の全てがあの男に向いていることが、悔しい。
「……………っっ…」
ぎりっ、と音がするほど口唇を噛んで、遂に花椿は少女を抱き上げた。
「……っ…せんせ……?」
彼女は泣き濡れた瞳のまま、自分を見上げる。
足早に庭の隅の小屋に向かい、片方の腕だけで少女を支え、そこにいた馬に跨って。
片手で手綱を操り、そこから出た瞬間だった。
「み……三優っっ!三優!!」
「!!………ぃ…やだ…っ……」
肩で息をする天之橋の声に、胸に顔を埋める少女を抱いた花椿が顔だけ後ろを振り返った。
「……これ以上泣かせたら黙ってないって言っといたハズよね?三優は渡せないワ、もう限界。……でも、何なら追いかけて来てもいいわヨ?」
競馬でアタシに勝てる自信があるなら、だけどね…
口の中で呟いて、花椿が思い切り鐙を蹴った。
ガガッッ、と硬い蹄の音を響かせて、白馬は飛ぶように駆けて行く。
漆黒の夜空に輝くのは、見たこともない星座。
「三優、大丈夫?恐い!?」
「……っ!……っっ!!」
「あっはっは!そうよね、初めてだもの!…でも大丈夫よ、アタシがいるからー!イィーヤッホゥ!!」
軽快に笑い飛ばす花椿に、少女が硬く瞑っていた瞳をようやく開けた。
「……せ、せんせっ……天之橋…さん…はっ…?」
少女が途切れがちに絞り出した台詞は、こんな時でもあの男の事。
縄目が食い込むほど手綱を握りしめて沈黙した後、彼は静かに息を吐いて諦めたように手を緩めた。
「…すぐ…来るわよ…アイツのことだから。三優の事になると、ホント往生際が悪いんだから………ほら、ネ?」
諭すように囁く花椿の言葉の中に割り込んでくる、もう一つの蹄の音。
遠くから呼ばれる自分の名前に、少女がまた涙を浮かべた。
「………三優、自分の気持ちを意識しなさい。楽しい事を伝えるように、辛いこともちゃんと伝えなさい。…アンタが一鶴だったら、隠して欲しいと思うの?」
ふるふると首を振って、少女がしがみついていた力をそっと緩める。
それでもって、もうちょっとだけ、お仕置きネ。
そう呟いて、追いついて隣に並んだ天之橋に声を掛けた。
「勝負よ、一鶴!ゴールは分かってるわね!?」
「よさないかっっ、夜中だぞ!見通しが利かなくて危ない!!」
「“アンタみたいに安全第一な男は、アタシには勝てない”なんちゃって!」
「……〜っっ!!汚いぞ花椿っっ!!!」
「オーッホッホッホッ!!」
どこかで聞いたことのあるイントネーションの高笑いが、異国の夜空に響き渡った。
ゴールの木の下を一瞬早く駆け抜けた花椿が、敢闘賞だ、と言って抱いていた三優を下ろし、馬を来た方向に向けて歩かせ始めた。
途端にへたりこんだ少女を、慌てて馬を飛び降りた天之橋が支える。
「…花椿!落馬でもしたらどうするんだ!!」
「落ちそうになったらそっちに投げるわヨ。アンタその為に真横にくっついてたんでしょーが。…アタシもう帰って寝るワ…おやすみ〜。」
あくびをしながらひらひらと手を振って、花椿の乗った白馬が闇に消えた後。
腕の中で苦しそうに身じろぎする少女に、ハッとして。
勢いで抱き締めていた手を緩めた。
「す、すまない三優…大丈夫かい?どこも痛くない?」
「…はい……大丈夫、です。…あの、天之橋さん……」
ごめんなさい、と消え入りそうな声で、少女が呟いた。
「わたし、せっかく誘ってくれたのに……行きたくなかったんです、ごめんなさい!」
「…三優、謝らなければならないのは私だよ…」
「……違うんです!」
大きく首を振って、少女が彼の言葉を遮る。
伏せたままの瞳から、ぽつ、と涙が落ちた。
「馬に乗れないのわたしだけだからっ…イヤだったんです…ちゃんとそう言って、練習すればよかったのに。……マリィの事も…天之橋さんを見ていて、家族みたいなものだって分かってたのに……パジャマでお部屋にいるの見て“わたしは着替えてきたのに”とか…“どうしてわたしじゃない女の子に優しくするの”とか……妬んでばかりで…天之橋さんにとっては、すごく、大切な人達なのに……」
「………だとしたら、なおさら君に謝らなければならない。……君が花椿と出掛けて連絡がつかなかった時間や、さっき抱かれているのを見た時、本当に苦しかった…心臓が壊れてしまうかと思ったよ。…あんな思いを、何日もさせていて、気付かなかったなんて……すまない、三優……」
抱き締める手の力が強さを増して、髪に顔を埋めて吐き出される言葉にこめられた苦しさは自分以上。
その言葉に、愛されていることを強く感じる。
彼も、そう感じてくれるのだろうか?
“醜い嫉妬”ではなく“それだけ愛されているのだ”と。
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