「とりあえず、一週間でこれ覚えてもらいましょ。」
本宅に着いて萌葱の小袖に着替えた途端、少女の前に置かれた分厚い人名録。
「祇園さんのお祭りの宵山にうちが出してる鉾のとこで座を設けてな、親しい人二百人ばかりご招待してるの。そこであんたのお披露目やから、気張ってなぁ。」
「……はい。」
目を伏せて頷く少女に小さくため息をつく。
「そんな気ぃ抜けたような返事して……ちゃんと食べへんからやよ?三月さんが心配してはったわ、ここ何日かろくに食べてませんて。
何かあっさりしたもん作らせるさかい、食べて元気出してなぁ。」
「はい……大丈夫、すこぉし夏バテしてるんやと思います。」
いけない、こんなことじゃ。自分で決めたの、しっかりしなくちゃ……
昔の様に京言葉で目を上げた少女を見て、微笑んで祖母は障子を閉めた。
人名録を暗記するのに二日。
本格的なお茶の作法のおさらいに二日。
披露する琴の旋律を覚えるのに二日。
師匠として付けられた祖母の友人の家元が舌を巻いた。
「ほんまに筋がよろしおすなぁ……『朧月』こんなに早よう覚えはって……完璧やわ。
朱鷺子はん、三優ちゃんうちにくれへんやろか?」
「あかんあかん、音がまだ指に馴染んでへんわ……音が指から出て来よらんとなぁ。精進してや、三優。」
「もう、おばあさま、ちょっとも誉めてくれはらんと……わざと失敗して見せよか思うわ。」
「おぉ、こわ。そやなぁ、三優は見所が有りすぎるさかい欲張ってしもて。それだけは堪忍やで。」
この六日、時間が空くことが怖い少女にとって、やらなければならない事があるのは有り難かった。
薄味の食事はなんとか胃に収まり、誰かがいるときには笑う事も出来る。
ただ、夜目を閉じてから眠るまで、そして眠ってからも。
考えるのは……頭の奥に閉じこめて、厳重に鍵を掛けたはずの彼の事。
夜中に冴え冴えと、開け放した障子から差し込む蒼い月の光の中、ぼうっとして。
考えて、いるのだけれど。
わたしがいなくなって、彼が困ること、悲しむこと……考えても考えても思いつかない。
毎日の楽しかったお茶会。でも今思うとお仕事の邪魔だったかもしれない。そうならないように注意していたつもり、でも忙しいからと断られた事もなくて。
毎週のように日曜日を一緒に過ごしたのも。
疲れたお身体を休めたかったかもしれないのに……帰り際、話題にした所に、次の週必ず誘っていただいた。
もしかしたら、わたしがいない方が……いいのかもしれない。
あの日のうちに止めてもらった携帯も何もかも、私物は全て置いてきて。
明日の夜には、全てが終わる。
鏡台に映った泣き虫のはずの少女の瞳は、虚ろに月の光をうつすだけだった。
◇ ◇ ◇
当日は、朝からみんな忙しそうで。
小間使いも執事も、どこかソワソワ落ち着かない。
大事なお茶碗や茶道具を、座まで運ぶ車が行き来して…値段がつけられないようなものがたくさんあるせいか、ボディガードの数も倍近く。
少女は勝手がわからないので、手伝いたくても言い出せず、居所無く部屋でその華を見ていた。
「三優、そろそろ着替えとこか?」
昼過ぎ部屋に入ってきた祖母も、いつもよりうきうきとしていた。
のろのろと立ち上がり、人間国宝の一点物という深紫色の振り袖を着物掛けから外す。
その、時。
「まぁ、この薔薇、小澤の家から後生大事に抱えて来たやつやないの。」
少女の身体が、祖母の声に凍り付いた。
「もう花びらも落ちてしもて……枯れた花なぞ置いとくものやないで。
そぅ、庭のかんなが盛りやから、代わりに生けてあげるわねぇ。」
ばさっ、と重い音を立てて、振り袖が足元に落ちた。
「三優?」
慌てて拾おう、ともせず。
振り返ることもしない。
「……三優……?」
前に回った祖母が、少女の顔を見た。
「……っく……っ…」
着物の袂を握りしめて、あふれる涙の粒を幾筋も頬に伝わらせて立ち尽くす。
やがて、黙って脇に座った祖母の手から、少女は華を受け取ってしっかり胸に抱いた。
花びらも少なくなったその華を、じっと見て。
涙を拭きもせず、ひとつだけ息をつくと、祖母を見ずに呟いた。
「おばあさま……どうしても、会いたい人がいます。
三優が、三優のうちに……もう一度だけ……一目でも会いたい人が……」
言い終わらないうちに、庭で悲鳴と怒号が起こった。 |