「……最悪だ」
「はぁ?」
入るなりいきなり呟いた零一の言葉を。
俺は、疑問符をいくつも付けて返した。
零一は、すばやく客がいないのを見て取ると、勝手にドアのプレートを裏返した。
「こらこら。なんだよ、営業妨害か?」
「この時間の売上くらい、俺が一人で飲んでやる!」
軽く文句を言うと、返ってきたのは余裕のない返答。
つかつかとカウンターに歩み寄ると、零一は酒!と言ったまま、憮然と黙り込んだ。
「まあ、客は客だから構わないが……」
俺はいつもの酒を手早く用意し、零一の前に置いた。
がっ、と一瞬のうちに空になるグラス。
「……おいおい。がぶ飲みするような度数じゃないぞ、一体どうしたっていうんだ?」
もう一度、同じようにグラスを空けてから。
零一は、独り言のように呟いた。
「最悪だ」
「だから、何が」
「彼女が…っ」
それだけで、誰を差しているのか分かる。
あいつが話題に挙げる女なんて、ひとりしかいないから。
零一のクラスの、生徒さん。
以前、車が故障した時にここに連れてきて。
クリスマスにも、一緒に来ていた。
ただの生徒だ、と零一は言い張っていたけれど。
零一の彼女を見る目が、彼女は特別な存在だと、告げていた。
「ああ、あの可愛い生徒さんね。どうした?告白でもされたか?」
「………!!」
「ビンゴ?」
「な、な、何故!何故そう思う!」
「そりゃあなあ。おまえが在学中に告白なんてしそうに無いし、あの子に彼氏ができるってのも考えられないし。
そしたら、告白されたくらいしか考えられないだろ」
「何故、彼氏ができた可能性を排除するんだ?」
狼狽を隠すように眼鏡に手をやった零一に、俺は軽く肩をすくめてみせた。
「そりゃ、当たり前だろ。あの子、零一しか目に入ってなかったじゃないか」
「………!」
「で、どうしたんだよ。なんて返事したんだ?」
零一は静かに俯き、珍しく弱々しい声を出した。
「……った」
「は?」
「断った……」
「……え?」
「断った!何度言わせるんだ!」
バン、とカウンターを叩いて。
零一は、目を逸らす。
その目が、苦しそうに歪められているのが分かり、俺は息を呑んだ。
「あー…その。……でも、なんでだよ?おまえだって、あの子を特別に思ってんじゃなかったのか?」
照れて反駁するかと思ったが、零一は意外にも素直に頷いた。
「……だが……私は教師で、小沢は生徒だ。規律は、守られなければならない」
頑ななその言葉に、俺は大きく眉をひそめた。
本気で言っているのか、と。
「……零一。俺は、おまえが教師であることは天職だと思っているし、おまえの性格も嫌いじゃない。だがな」
カウンターから身を乗り出し、低い声で言う。
「規律だの何だのいうものが、女よりも大事か?
悩んで悩んで、やっと決心した告白を。そんな理由で台無しにする権利が、おまえにあるのか?」
一瞬、零一の顔に苦痛が浮かんだ。
「彼女を愛せないという理由で断ったなら、仕方ないと思うよ。あの子は可哀想だけどな。
でも、そんな理由で拒絶したあの子が卒業したとき、おまえはどのツラ下げて彼女を好きだと言うんだ?
教師と生徒でなくなったから仲良くやりましょう。そんな都合の良い話が通ると思うのか!」
零一が、彼女の卒業と同時に想いを打ち明けようとしていたことは、知っていた。
教師としてけじめをつけなければいけない、そう考えるだろうことは長いつきあいで分かっていたし、それが奴なりの思いやりでもあったので、俺は敢えて意見しなかったけれど。
それ以前に彼女から告白されたら。謝って、卒業まで返事を待ってもらうくらいはするだろうと思っていた。
俺は頭を振って激情を抑え、濡れた布巾をカウンターに投げつけた。
こいつの不器用な愛し方が、そしてそれによって倖せになれるはずの二人が不幸になってしまうのが、苛立って仕方なかった。
堅物の零一が、自分の生徒を好きになる。それだけで、彼女が特別だと知れるのに。
そんな特別な女の子を、馬鹿な気兼ねなんかで傷つけるなんて……!
「俺は、おまえの行動を支持できないね。せいぜい、彼女が赦してくれることを期待しておけばいいさ」
吐き捨てるようにそういうと、零一は両手の指を組んで苦しそうな表情を隠した。
「俺も……そう思う。だが、考えるより早く……言葉が出ていた」
俺は大きくため息をついた。
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