カララン、カラン。
「ありがとうございました」
おそらく営業の合間なのだろう、昼間よくコーヒーを飲みに来てくれる常連の客が片手をあげて出て行ったので、俺は親しみを込めて挨拶した。
店内には誰もいなくなる。夜になるまでは酒を頼む客もほとんどいないので、この時間は開店準備の合間にささやかに営業しているようなものだった。
さっきの客が残していったカップを片づけ、テーブルを拭く。
それほど長い年月、店を開いているわけでもないが、テーブルはそれなりに年季の入った味を出し、自然と艶が出ていた。
カップと、ついでにシンクにあったグラスも洗い、水滴を完全に拭き取る。
それを棚に仕舞って、自分のためのコーヒーを沸かし、次いで必要のないはずの湯をポットで沸かしてそうして初めて、俺は声を発した。
「いつまでそうしているつもりなんだい?」
かたんと、入り口の方から音がした。予想通りの展開。
「いいから、入っておいで。今なら誰もいないから」
それでもしばらく、躊躇する時間が過ぎて。
その間に、俺はトールグラスにできあがったレモネードをついだ。
カラ…カラン、と。
ためらいがちな音がして、彼女が入ってくる。
「いらっしゃい。寒かっただろう?」
俺は、明るく声を掛けた。
彼女が逃げないように。
彼女が、心を開けるように。
◇ ◇ ◇
「さぁ、これを飲みな。ちょうどいい熱さになってると思うよ」
おずおずとスツールに腰掛けた彼女に、俺はホットレモネードのグラスを押しやった。
「……………」
彼女は初め、手を出すつもりはなかったようだったけれど。
1月の夕方、俺が気づいてからでも1時間以上は店の前で迷っていたその体は、冷え切っていたのだろう。
「……ありがとう、ございます……」
ちいさく言って、暖かいグラスを手に取った。
一気に半分ほど飲んで、ほっと息をつく。
俺は努めて彼女の動作に反応しないようにしながら、ミルクパンでミルクを沸かし始める。
「……あの……」
「ん?」
彼女が、口を開く。
「……お客さん……いないんですか?」
「この時間は、ね。うちは夜が本営業だから、7時頃になるまではほとんど来ない」
「……そうですか」
「だから、閉めても問題ないよ?」
「え?」
問い返した彼女の前に、カルアリキュールで風味を付けたホットミルクを置き、俺はカウンターを出た。
慣れた動作で、ドアの下げ札を後ろ向きにする。
「これでいい。もう誰も来ないから、安心して?」
瞬間、少女は、考えを見透かされた驚きに支配された表情をした。
「ああ、それから。それ」
気にせず、目の前のタンブラーを指さす。
「ほとんど風味付けだけだけど、体を温めるためにほんの少しだけ酒が入ってるから。
生徒さんに酒なんか飲ませたって知れたら大変だからな、零一には内緒だぞ」
ビクンと。
彼女の体が跳ねた(気配がした)。
俺は、そんな彼女の様子が見えないようにしながら、カウンターの中へ戻った。
「……言いたくないなら、言わなくていいよ。体だけでも温めていきな。
言いたかったら、言えばいい。相談でも愚痴でも恨み言でも、人の話を聞くのは仕事だからね」
そう言いながら、背を向けて棚のグラスの位置を調節し始める。
「マスターさん……知って、らっしゃるんですか?」
小さく問いかけられた声に。
「いや。……でも、君がひとりでここに来るなんて、他に理由がないからさ。零一の話なんだろ?」
さりげなく、嘘をつく。
彼女は、意を決したように一呼吸置いて、話を始めた。
それを静かに聞きながら。
俺は、突然訪ねてきた零一のことを思い出していた。 |