ちゃぷん、と天井から水滴が落ちる。
それを、バスタブの縁に両腕を置いて見上げていた彼は。
いきなりばしゃばしゃと波立つ音に、ため息をついて身体を起こした。
「……何をやっているんだね?」
広いバスタブの向かいには、泡だらけの少女の姿。
バスソープを入れたお湯をもっと泡立てようとしているのは分かったが、ついそんな言葉が口をついてしまう。
そうでもしないと、間が持たない。
一緒に風呂に入ろうと駄々を捏ねられて。
さすがにそれは拒否しようとしたけれど。
むっとした酔っぱらいが、自分の服を力ずくで脱がそうとするのを必死で止めて
もう、それ以上。彼女に抵抗する気力がなかった。
「……むー……」
少女はまだ、ばちゃばちゃと手を動かしている。
思うように泡立たないのが悔しいのか、頬を膨らませてむくれて。
そんな姿が可愛くて、つい、状況を忘れて笑みが漏れた。
そばの物入れからバスソープの瓶を取り出し、量を加減して入れる。
途端に、泡立ち始めるのを見て取って。
きゃーきゃーと歓声をあげて、少女は泡を跳ね上げた。
「こら。髪が濡れてしまうよ」
あんまり動くから、彼女の上げられた髪が半分以上落ちて、泡にまみれている。
「髪は洗うのかね?」
「はーい」
確認しただけなのに、勢いよく返事をして近づき、背を向ける彼女に苦笑して。
泡のきめ細かいところだけを洗面器で掬うのに夢中になっているその頭に、シャンプーをつけた。
かしゅかしゅと小さな音を立てて泡立てると、少女はくすぐったそうに身じろぎする。
時々、ふるりと頭を振るから、泡が飛んで。
その度に露わになる首筋や肩を、見ないように。
「……じっとしていなさい」
「だって……めが……っ」
少し困った様子で、少女は泡だらけの手を示す。
その手では、シャンプーの滲みた目を擦ることが出来ないのだと気づき、シャワーを渡しかけて。
それで流してしまったら、今は泡で覆われている彼女の身体がどうなるのかを想像して、焦る。
結局。
タオルを濡らして渡し、それで拭かせたけれど。
よく考えたら、シャンプーを流すのにどうしてもシャワーを使わなければならない。
どう、しようか?
内心焦りながら、手の動きがどんどん鈍くなっていく。
そんなことをしている間に、丁寧すぎる彼の行動に飽きた少女が、いきなり身を乗り出してシャワーを取ろうとして
ずる、と。
思い切り、足を滑らせた。
「ひゃぁっ!」
「危な……!」
外のタイルに頭から突っ込みそうな勢いを、咄嗟に抱き留める。
その反動で、バスタブに深く沈んでしまって。
背の高い彼はまだ首まで浸かっただけで済んだが、それより30cm以上低い彼女は、頭まで浴槽の中。
慌てて引き上げ、タオルで顔を拭う。
「水結!大丈夫か!?」
けほけほと咳き込みながら、水を吐き出す。
どうやら、石鹸の入った湯をかなり飲んでしまったらしい。
とりあえず、タオルを渡して。
シャワーで洗面器に湯を溜めて。
背中をさする。
「こほっ……かはっ……う、ぇ〜……!」
幼児化した少女が、ぐすぐすと泣き出すのに狼狽えて。
「ああ、泣かなくても大丈夫だから。落ち着いて」
つい、子供をあやすように頭を撫でて、抱きしめる。
「ふぇっ………ぇっ……」
しばらくして、腕の中の嗚咽がだんだん小さくなって。
ほっと息をついてから我に返った。
バスタブの泡は、彼女を避けるように丸く取り巻いていて。
すでに、すっかり落ちている身体の泡。
横抱きに回した手は、胸の下。
当然、彼女が座っているのは自分の膝の上で。
見下ろせば、荒い息と、紅潮した頬と、涙の浮いた瞳。
一瞬で飛びかける理性を、なんとか制した。
ただでさえ、様々な成り行きで心外な状況なのに。
自分から、決定的な既成事実を作るわけにはいかない!
「………水結。落ち着いたら、身体を流して。先に出なさい」
不満そうな彼女を。
「ここのレストランのミルクレープは、絶品だよ。ルームサービスで頼めるから」
絶対に掛かると確信している餌で、釣る。
とたんに目を輝かせ、シャワーも適当にバスルームを出て行く彼女を見ないようにして。
彼女が扉を閉めた途端、彼の口から深い深いため息が漏れた。
風呂から出た後も。
当然着替えなど持ってきていない彼女が、自分のシャツ一枚だけでうろうろする室内。
ケーキを待ち侘びて、その格好のまま応対に出ようとするのを慌てて止めたり。
甘いクリームを頬につけた状態で、抱きつかれたり。
すぴすぴと寝入った彼女が寝具を乱すのを、いちいち直して。
万が一を考えて、酒で気を紛らわせることも出来ず。
結局一睡もしなかった彼の次の日が、仕事になるわけはなかった。
FIN. |