コンコン、とノックの音がした。
机に肘をつき、ぼんやりと物思いに耽っていた王子は、反射的に振り向いてドアを凝視した。
「失礼します」
「……はあ」
訪問者が顔を覗かせた途端、その体勢のままで、ため息。
「まあ王子、失礼ですよ。人の顔を見るなりため息なんて」
「…………今日は、なんだって?」
言葉とは裏腹に楽しそうな軍師には応えず、無愛想に問い返す。
さらさらと近づいてくる衣擦れの音を聞きながら、王子は拗ねたようにぺたりと机に頬をつけた。
「軍需物資の仕入先で、ちょっとした小競り合いがあったそうです。
それ自体はすぐに収まったんですが、そのせいで市場が混乱したので、取り纏めに行ったようですよ」
「小競り合い?」
ふと顔を上げた彼に、ルクレティアは訳知り顔で頷く。
「勿論、護衛は十分につけてあります」
「……ありがと、ルクレティア」
また机の上に伏して、王子はもう一度ため息をついた。
「これはもう、気のせいじゃないよね……」
「ないですねえ」
「僕、避けられてるね」
「避けられてますねえ」
それはもう見事に、と付け加えると、彼の眉間の皺がますます深くなった。
ルセリナが王子の傍から離れがちになって、もう十数日が経つ。
最初の頃は、『殿下のために出来ることを探しているんです』という言葉が嬉しくて気に留めなかったが、そのうち姿を見せない時間が少しずつ長くなり、今では一度も顔を合わせない日もあるほどだ。
もともと、補佐はルセリナと決まっていたわけではない。しかし、バロウズの領地を維持管理していた彼女に、同じような規模である王子軍の管理はあつらえ向きの仕事だった。
行政面での補佐はルセリナ、軍事面での補佐はルクレティアという構図が、軍にとっても王子個人にとっても最善であることは誰の目にも明らかだったはずなのに。
だからこそ、愉快な気分にはとてもなれない。
毎日毎日、時間が空けばそのことを考えている自分は、我ながら情けないと思う。
仕事の都合だけならば指揮官として命じれば済むけれど、彼は彼女に恭順されたいわけではなかったから、無理を通すこともできなかった。
ほんの少しの時間、そうして塞ぎ込んだ後、王子は重い体を起こして書類を手に取った。
「……で。ルクレティアは、どう思う?」
しばらくして問われたそれは、決裁している書状についてではなかった。
それを教えてほしいから真面目に仕事をしているのだ、と分かっていたので、ルクレティアは紙の枚数を数えながらくすくすと笑い声をたてた。
他人事なら簡単に推察できそうな彼が、自分のこととなると役立たずになるのが、おかしい。
「そうですねぇ。ちょっと挫けちゃったんじゃないですか?」
「…!」
途端にかた、とペンを取り落として、王子は傍に立つ軍師を見上げた。
「僕の傍に……いることに……?」
ひどく苦しそうな瞳で、恐る恐る問う。
その頼りない表情を、『初々しいですねえ』と言いたげな顔でしばらく楽しんでから、ルクレティアはすまして答えた。
「いえ。正確には、自分が王子の傍にいていいのだと考えることに、でしょうか」
「え?」
「あの子は聡明な子ですが、自分の望みが叶うことに抵抗があります。そこを誰かに突かれたのかもしれないですね」
「え、……それって」
王子は一瞬、驚いた顔をして。
やがて苦笑を浮かべ、賞賛をこめて肩をすくめた。
「……君が僕の軍師でいてくれて嬉しいよ、ルクレティア」
「あら、そんなことを言われるとこちらの方が嬉しくなります。でも実際、私も楽をしたいんですよ?
わざわざ私が見張ってなくても、彼女がいれば仕事をさぼられませんし、駄々もこねませんから」
「ルクレティア!」
「うふふ、王子、顔が赤いです」
「趣味が悪いよ」
気恥ずかしさを隠してむくれた王子は、コホンと咳払いをすると、書類を差し出しながら物々しい表情を作った。
「すぐに使いをやって、彼女をここへ呼び戻しなさい、メルセス卿」
「御下命、確かに賜りました、殿下」
ルクレティアは恭しく拝礼してそれを受けた。
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