コンコン、とノックの音がした。
それに返事を返した王子は、先程とは違って焦っても物憂いてもいなかった。
訪れたのが誰かも、彼女が何を考えているのかも確信を持っていたし、
それに対する自分の答えは、もうずいぶん前に出ていたのだと自覚していたから。
彼の軍師は『想い合っていたとしても、納得させるのは簡単ではないですよ』と忠告してくれたけれど、難しいことなど何もないと思った。
彼女も、自分と同じ気持ちでいるのなら。
「失礼します」
「やあ、ルセリナ」
少し緊張した面持ちで彼女が入ってくると、王子は屈託なく笑って、椅子から立ち上がった。
「ごめんね、わざわざ呼び戻しちゃって」
「いえ、とんでもございません。何かありましたでしょうか……?」
「うん、これなんだけど」
近づいてくる彼女に、手元のファイルを示す。
それはもともとルセリナが作成した報告書だったので、内容はすぐに分かったようだった。
「遡って数字を拾おうとしているんだけど、計算が合わなくて」
「ああ……これはかなり初期にまとめたものですので、今の報告書と比べると統計要素が足りないと思います」
「そうなの?」
「はい。申し訳ありません、まとめ方が変わった時点で古いものも修正しておくべきでした。
もし半日ほどいただけるのでしたら、すべて手配して執行部署に回しておきますが」
深々と頭を下げて許しを仰ぐ彼女に、王子はくすりと笑って手を振った。
「いいよ、そんなに急いでないから。次の戦いが終わるまでに処理しておいてくれる?」
「はい殿下、仰せのままに」
ふわりと微笑みながら言われた台詞が、心のどこかにすとんと収まるのを感じながら。
王子はうーんと伸びをして、ぱたりと椅子に身を投げた。
「そういえば、なんだか久しぶりだね。こういうの」
その言葉に、ほんの一瞬だけ強張った瞳には、気づかないふりで。
「なんだか、随分と顔を見てなかった気がする」
「……そう、ですね。最近は外に出ることが多くなっていましたから……」
「管理する土地も増えてきたし、ルセリナが一番大変だよね。
でも僕も、ルセリナがいないとあんまり仕事をする気になれないなぁ」
彼が冗談ぽく笑うと、つられてルセリナもわずかに頬を弛ませた。
「申し訳ありません……ですが、このような事項については、レレイさんの方がお詳しいと思います。
ラージャ様やタルゲイユ様もいらっしゃいますし、実務に不都合は」
「そういうことじゃなくて」
「……は?」
にこにこと無邪気な笑いを浮かべ、王子はするりと彼女の手を取った。
「君はもしかして、僕から離れようとしていたのかな、と思って」
「……!」
今度こそ、はっきりと彼女の瞳が固まる。
それ以上何も言わず、自分を見つめるだけの彼に、ルセリナは頭が混乱するのを感じた。
これは、単なる冗談なのだろうか。それとも行動を見抜かれた?
しかし見抜かれたとしたら、なんらかの原因があるはず。もしかしたら、あの兵士が……?
ああ、いけない、動揺しては駄目だ。早く何か言わなくては。
「なにか……なにか、お聞きになられたのですか?」
混乱したまま選んだ台詞は、我ながら一番まずい言葉で。
言い終わる前に後悔した彼女に、王子は不思議そうに首を傾げた。
「ん?別に何も聞いてないよ?」
「あ、そ…そうですか」
思わずほっと安堵の息が出る。
そんなルセリナをじっと見上げて、王子はそのまま席を立った。
「でも、何があったかくらいは分かるよ」
「えっ……」
「誰かに何か言われたんだね?僕の傍にいるのは相応しくないとか、そういうことを」
「……………」
咄嗟に抗弁できず、黙って目を伏せたことが、肯定の意を示していた。
ゆっくりと繋がれた手を離し、胸の前で固く握りしめると、ルセリナは従属するようにわずかに膝を折った。
「……王子殿下、けれどそれは」
「当然のことだ、なんて言うつもりなら、いくら君でも赦さない」
「!」
驚いて顔を上げると、怖いくらいに真剣な瞳がまっすぐに自分を見ている。
「君はいつも、僕に対して主従の関係でありたいと思っている。それはそうだ。
僕が王子なのは紛れもない事実だし、君が僕の臣下なのも事実。それを否定する気はないよ」
「殿下、私は」
「でも、だからこそ、僕の考えを軽視することは赦さない。
指揮官として、王子として、僕はこの軍を率いる立場にある。ここにいるつもりなら、従ってもらうよ」
「……!」
びくり、とルセリナの体が震え、足が思わず後じさった。
殿下を侮辱するなと憤った自分が、あの兵士と同じことをしていたことに、気づいたから。
「君が自分の意志ではなく離れようとしていたのなら、見過ごすことはできないね。
それが僕の望みだと思っている訳ではないんだろう?」
「それは……でもそれは、殿下のご意向ではなく、て」
「君を傍に置くのが、主君としての慈悲だとでも?……むしろ逆だと思うけど」
コツ、と足音を響かせて、王子はゆっくりと彼女に近づく。
それから逃げるようになおも後退しながら、ルセリナは泣きそうな顔で俯いた。
「僕といれば、君は何度となく同じことを言われるだろう。
もちろん僕は君を守るつもりだけど、それはいつも君ひとりを責めるはずだ」
「で、んか、…お許しを」
「それが分かっていて、こんなことを言うのは、本当に自分勝手だけれど」
背中が、ひんやりとした壁に触れた。
もう逃げられなくなったルセリナが小さく身を竦ませると、王子は壁に手をついて、その中に彼女を閉じこめた。
「それでも僕は、ルセリナに傍にいてほしい。君さえ嫌でなければ」
「殿下……わ、私はあなたにとって、不都合な臣下にしか……なれません」
「構わない」
「どう、か」
「立場なんかどうでもいい。他の誰かでは駄目なんだ。
有能な文官も腕利きの将兵も、助けてくれる仲間は大勢いる……それでも」
とん、と軽い衝撃と共に、王子の額がルセリナの肩に当てられる。
どこか苦しげな声音。少し語尾が震えているのは、気のせいだろうか。
そのまま、彼女にだけ聞こえるように、王子は吐息に紛らわせて囁いた。
「僕には、君が……必要なんだ」
君は、誰に頼らなくても生きていける人だけれど。
あなたのそばでなくては夜も明けないのは、ほんとうは、僕の方。
ルセリナは動かず、ただ瞳をぎゅっと力任せに閉じて、声にならない声で『はい』と応えた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、照れくさそうに王子が顔を上げ、表情の選択に困っているルセリナにポケットから取り出した紙片を渡した。
「どうせ暫定的なものだから、特に名前をつけて任命する気もなかったんだけど」
「……?」
おずおずと覗き込むと、目に飛び込んできたのは見慣れない呼称。
「補佐、官?」
「うん。きちんとした立場があれば、少しは非難されなくなるかと思って」
その書面には王子としての正式な印章が押され、国内外において公文書として通用するよう形式を整えられている。
王位継承権はないとはいえ王族の印章が、ただの文官の任命書に押される。それはつまり、その地位が彼専属のものであり、彼以外の命令は受けず、その者を侮辱することは彼を侮辱するのに等しい、ということを表していて。
慌てて何か言おうとした彼女を遮り、王子は言い聞かせるように片目を閉じてみせた。
「反論はなし」
「ですが、殿下……!」
「これは僕を悩ませた罰なんだから、おしおきに文句は駄目だよ。もちろん、ルクレティアの許可はもらってあるよ?」
君は僕よりルクレティアを信用する傾向があるからね、と付け加えると、さっと頬を染めたルセリナはきまり悪そうに黙り込んだ。
END. |