「……俺もえらく無茶をやったものだ」
思い返して、ヴィクトールは低く独語した。
公の場に私的な感情を持ち込むなど、最も愚劣な行為だと広言していたのは自分だったのに。……しかし、愛する者のために、そして自分のために行った“愚劣な行為”は、彼にとって人生最大の誇りでもあった。
そして、それによって二人の想いは認められ、今こうして倖せすぎる生活を送っている。
聖地の内に館を構え、ふたりだけで暮らすようになって以来、ヴィクトールが不眠や悪夢を感じることはなくなった。
俺は全く、子供のようなこいつに頼りきっているらしい……。
30過ぎの男がそれを恥だと思わないことが、彼の心情を表しているのかもしれなかった。
「もう。明日から起こしませんからねーだ」
言い捨ててベッドを降りるに我に返り、ヴィクトールは少女の片手を掴んだ。
「すまんすまん。おまえに起こしてもらわないと、俺は夢の世界から抜けられなくなってしまう。
機嫌を直してくれ」
「夢?」
振りほどこうとして、ふと、聞き返す。少女を引き寄せて、ヴィクトールは倖せそうに目を細めた。
「おまえが俺の頭を撫でて、ゆっくりねむってね、何も心配しなくていいから、と囁くんだ。
それを聞くと、俺はもうどうしようもなく眠くなって」
「いじわる!」
ばっとヴィクトールに布団を被せて、は赤い顔で寝室を出て行く。
「??」
少女が夜中密かにしていたことを夢として記憶していた彼は、わけの分からない風に首を傾げた。
◇ ◇ ◇
「それで、。気分は悪くないのか?」
朝食の席で、ヴィクトールは心配そうに尋ねた。少女は苦笑気味に頷く。
見るからに儚げな彼女が、生活の変化のためか体調をくずしたのはここ数日のことだった。
具合が悪いといっても、倒れるとか吐くとか派手に弱ったことはないのだが、ヴィクトールは折に触れてそれを聞きたがる。
自分が守ると決めた少女の、体調や病気については何の力にもなれない事が、悔しくてならないようだった。
「大丈夫ですってば、心配性なんだから」
「いや、おまえの大丈夫ほど信用できないものはないぞ。
ちょっと目を離すとすぐに何かをやらかして、しかも平気な顔で笑ってるんだからな。まったく、手のかかる……」
「ひどーい! それじゃまるで、私が赤ちゃんみたいじゃない!」
半ば本気で、は椅子を蹴って立ち上がった。と、机に手をついた拍子にスープ皿が跳ね、湯気の立つ液体を食卓にぶちまける。
「きゃ……」
「おおっと!………ほら見ろ。言ったそばからこれだ」
が叫ぶより早く横から抱き上げた彼は、大げさに肩を竦めてため息をついた。実際その台詞よりなにより、彼の手慣れた俊敏さが全てを語っているのだが……。
なにも言えないの身体を、お仕置きだとばかりに高々と持ち上げる。
「どうだ。俺の言ったことを認めるだろう?」
普段の二倍近い視点の高さに、少女の表情が不安げに曇った。
「や……降ろして、ヴィクトールさまっ……」
「そうだ、ついでにその“ヴィクトールさま”もやめると誓え」
「わ、わかったってばぁ! こわ、っ……」
調子に乗って豪快に腕を振り回していたヴィクトールは、しかし、少女の瞳が潤むのを目にして顔色を変えた。
あわてて少女をしっかりと抱き留める。
「……すまん。悪ふざけが過ぎたようだな、怖かったか?」
ヴィクトールの肩に顔を伏せたは、拗ねたように首を振る。
「?」
「……子供じゃ、ないって。認めてくれたら泣きやむ」
ぷっと思わず吹き出して、ヴィクトールは少女の背中を叩いた。
「判った判った。子供なんかじゃないさ、俺の大事な奥さんだからな」
素直に言われると、それはそれで照れくさい。ゆっくりと降ろされたは、顔色を隠すように時計に目を向け、掛けてあった上着をハンガーから外した。
「ほら、もうこんな時間。本当に遅刻しちゃいますよ、今日は軍本部へ行くんでしょう?」
ヴィクトールは差し出された上着を羽織ると、時間を確認して頷いた。
「そうだな、俺が遅れたら下の者に示しがつかんな。じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい。今日は早く帰ってね」
「?何かあるのか?」
ちゅ、と頬にキスを受けながら、いぶかしげに問う。
は少し焦って言葉を探した。
「え、えっと、今日は念のためにお医者さまの検診を受けようと思うんだけど、ひとりじゃ怖いからついてきてほしいの」
「検診?いきなりどうしたんだ」
「ううん、とくにどうこうって訳じゃなくて」
「?……まあ、とにかく分かった」
不自然な態度に何らかの予想をいだくのが普通なのだが、少女があまり不安がらずむしろ嬉しそうに見えたこともあって、ヴィクトールはそれをたいして気にせずに家を出た。 |