「しまったな……こんなに遅くなるとは」
その日の夕方、もう陽も暮れかけた頃、ヴィクトールは呟きながら家路を急いでいた。
思ったよりも仕事が山積みで、早く帰ろうにも帰れなかったのだ。
以前と変わらず自分を補佐してくれている若者は、最近では命令を聞く前にそれを予測し、完璧なデータを用意するまでになった。
ヴィクトールの直属として、キャリアも地位も上の軍幹部達に指示を与える立場であることが、彼の向上心を刺激している様である。将軍にしては少壮の上官のためにも、恥になる行動はできないと考えているのだろう。
そのキールとともに食事もせずに働いたのだから、彼に非はないはずだった。
……だが、ヴィクトール本人にすればそんな理屈は言い訳にしか思えない。
早く帰ると約束したのだ。しかも病弱な妻が、医師の所へついてきてほしいと言ったのに。
仕事など放って帰宅するべきだったか、といささか彼らしくないことを考えながら、ヴィクトールはいつの間にかすごいスピードで聖地を爆走していた。
中尉の階級章をつけた兵士が敬礼しつついぶかしげに見るのにも気付かず、全力疾走で館を目指す。
「……すまん、遅くなっ……!」
ぜいぜいと息を弾ませて帰り着いたヴィクトールは、ライトが点いていない部屋に入って舌打ちをした。
一人で行かせてしまったか、と呟きかけ、ふとソファを見て立ち竦む。
「…………」
暗闇の中で、そこに倒れるように横たわっている少女の姿。
いきなり冷水を浴びせかけられたような顔をして、ヴィクトールはゆっくり目を見開いた。
なんだか、近づいてはいけない気がする。そら恐ろしい不安が胸を突く。
いろいろなことが一瞬のうちに頭を駆けめぐり、二度ほどためらってから、彼は震える声で少女の名を呼んだ。
勇気を振り絞って触れてみる。あたたかい。唇を近づけると、かすかに息をつく音が聞こえる。
思わず、ヴィクトールは少女の手を握りしめて叫んでいた。
「…!」
「みゃっ!?」
だが。彼の不安をよそに彼女はがばっと体を起こし、せわしく周りを見回すと、仔猫のように寝ぼけ眼をこすりながらヴィクトールをみた。
「……ヴィクトールさま?おかえりなさいぃ……」
「………………………」
ヴィクトールは二の句を継ぐことができなかった。一気に力が抜けて、床にへたりこむ。
「?……どしたの?」
不思議そうに見つめる瞳が、無性に気に障る。
自分でも訳の判らない激しい憤りにさいなまれて、ヴィクトールはすっくと立ち上がった。
「馬鹿野郎! 体調の悪いヤツがこんな所で寝ていいと思ってるのか!?」
予想以上に容赦ない声が口をつく。少女は目を丸くして硬直した。
威圧的に見下ろすヴィクトールは、だが、責められるのは彼女ではないことを承知している。
おそらく、自分が遅くなったのが原因なのだろう。早く帰ると言った自分を待つうちに、ついうとうととしてしまったに違いない。
は悪くない。判っているのに、言いたいのはこんなことではないのに。
「心配性だなんだと人を諌めておいて、このざまはなんなんだ!
医者に行くと言ったその日にこんな事をして、俺がどんな気持ちで……おまえは一体、俺をなんだと思ってるんだ!?」
罵声が止まらない。おびえた様子で見上げるよりもよっぽど傷ついた瞳を隠して、ヴィクトールは顔を覆った。
「だからおまえは子供だと言うんだッ……少しは俺のことも、考えっ………」
怒鳴り続ける様子に、変化を感じたのはの方だった。
「……ヴィクトール、さま……?」
こわごわとその身体に触れて初めて、彼が震えていることに気付く。
自分より40cm近く大きなはずのヴィクトールが、いつになく小さく見えた。
「ご、……ごめんなさい」
手を取ると、震えを隠すように振り払いかけた腕がふと止まり、こわれ物を扱うようにそっと少女を抱きしめた。
「……」
もう隠しようもない弱々しい声が、少女の耳元でかすかに響く。
「俺は…俺は今まで、人の死や別れを怖いと思ったことがなかった。
悲しみはいつも心を満たしたが、仕方のないことだと諦めていた。だが……」
傷心が、熱を帯びてに伝わる。
「だが、さっきおまえが倒れているのを見て、俺は激しい戦慄を感じたんだ。
何度も死線をくぐってきたこの俺が、恐怖で動けなかった。おまえを失うかと思うと、何もかもが終わった気がして……」
この少女を失ったとき、自分は一体どうするのだろう。
また、以前の生活に戻るのか。過去を忘れてはならないと言い聞かせながら、その過去に捕らわれて生きていたあの頃に。
その時、おとなしく聞いていたが静かに口を開いた。
「………私も、同じことを考えてました」
ぴく、とヴィクトールの背中が反応する。
「試験中、ヴィクトールさまが昔の話を聞かせてくれたとき。
災禍の中で無事だったことにほっとしながら、試験が終わって軍に戻ればまた、おなじ目にあうかもしれないって……」
は目を伏せた。睫毛の先が水気を含み始めている。
「あなたがひとり生き残ったことを悔やんでいると知っていながら、それでも生きていてほしかった。
たとえ何千人のひとが亡くなったとしても、ヴィクトールさまがいればそれだけでいい、って。
自分勝手だと判ってるんです、だけど」
「それは違う、」
ぱたぱたと涙を零す少女の肩を掴んで、ヴィクトールは覗き込むように視線を合わせた。
「確かに、俺は重い枷を背負って生きていた。いっそあのとき死んでいればと思ったこともある」
うつむいたままのの頬を、新しい流れが次々と伝う。
「だが、おまえに会ってからは違うんだ。
俺を好きだと言ってくれたおまえを、俺は倖せにしたいと思った。おまえを倖せにすることが即ち俺の幸福だと。
そして死んだ奴等もそれを望んでくれていると、思えるようになった。
おまえがいる限り、彼らは重荷ではなく大切な思い出として残っていくんだ」
「ヴィクトールさま……」
少し驚いた顔で、はヴィクトールを見上げる。
彼の表情に先程までの激しさはなく、代わりにいつものあたたかさが彼女を包み込んでいた。
「……だから頼む、俺から離れていかないでくれ。たのむ」
そう言うと、ヴィクトールは誓いを立てるように少女のまぶたに唇を重ねた。
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