翌日、あおく晴れ渡った空をながめながら、とレイチェルは馬車に乗り込んだ。
宮殿までの短い道のりを、静かに揺られながら運ばれていく。
は一言も口を聞かなかった。宮殿に降り立ったときも、式に先立って守護聖から祝辞を述べられたときも、頼りなさなど微塵もない気丈な表情でキッと前を見つめていた。
その著しい変化に女王の風格を噂する者もいたが、ずっと共に生活してきたレイチェルや彼女を良く知る一部の人々は、漠然とした懸念を感じていた。
……どう見ても、の様子は普通ではなかったから。
やがて、即位の儀が始まった。守護聖と協力者の居並ぶ中を全く臆することなく、少女は女王への階段を上ってゆく。
その姿を下座から遠く見つめる瞳が、わずかに歪んだ。
「女王候補、あなたに対して陛下からお言葉があります」
少女が最前列に立つと、補佐官ロザリアが厳かに述べた。
「。あなたは見事に使命を果たし、新しき宇宙に生命と文明を産み出しました。
宇宙の意志が示した可能性を最大限に生かしたあなたが、新宇宙の女王です」
少女の功績を讃えた女王の顔が、ふっと和らぐ。
「ほんとうに……、立派になったわね。初めて聖地に来たときのあなたとは、まるで別人のようだわ。
あなたのその“意志”の力、困難に直面しても逃げ出さない“心の強さ”の源が何なのか、それを忘れないでいてね」
少女の瞳が、かすかに揺らめいた。女王はそのまま一同を見渡し、息を整えると、ひときわ明瞭な声で告知した。
「、新しき宇宙の女王の資格を得たものよ。
その宣言をもって、即位は為されます。女王の宣言を!」
部屋中が静寂で満たされ、全員が姿勢を正して少女の宣誓を待った。
最初にそれに気付いたのは、左隣から少女を見つめていたジュリアスだった。
「………………?」
女王も、補佐官も、と向き合ったまま驚く様子はない。
ジュリアスは彼らしくなく狼狽え、処置を求めるように女王に視線を向けた。
「………。その涙の理由を、説明することができますか……?」
全てを知っている母親のように女王が尋ねると、広間にささめきが起こり、誰もが息を呑んだ。
少女は、毅然とした表情のまま、左頬に一筋の雫をこぼしていた。
「答えなさい。」
おそらく彼女を放心から戻すためなのだろう、少し強い口調で繰り返し問う。
の様子が緩慢に変化してゆく。誇り高き女王から、いつもの内気な少女へと。
それでも、瞳だけはしっかりと女王を捕らえ、はゆっくりと首を振った。
「……私……私、女王にはなれません……」
騒めきが一段と大きさを増す。その声にびくりと身震いして、少女は耐えるように掌を握りしめた。
「私には……新しい宇宙を、アルフォンシアを導いていく資格が、ありません。
宇宙よりも大切に想う方がいるんです……」
消え入りそうな声で言うと、その振動でまた、涙があふれた。
「……その方から、私は、意志の強さとはどういうものであるかを学びました。
その方は仰いました、……意志の強さとは、自分の心を偽らないことだと。
いかなる時でも、誰の前でも……自らの心を偽ってはならない、と。
だから……わたしは、女王には…なれな……っっ」
「!」
その時、ふらり、とよろめいた彼女を誰よりも早く支えたのは、一番末席にいた彼であった。
女王の眼前、少女を背中でかばうと、ヴィクトールは敢然と胸を張って正面を見据えた。
「陛下、御前の無礼をお許し下さい。されど、申し上げたいことがございます。
……女王試験が始まった頃、この少女が学習を受けに来た時のことです。
私が『精神の強さとは自分を偽らないことだ』と説くと、彼女は、『たったひとりで真実を貫くことはむずかしい』と答えました。それに対して、私は彼女とある約束をしたのです」
それなら、心を偽らなくてもすむように……俺がおまえを守ってやる。
ヴィクトールはの頭をぽんと叩いてそう言い、照れたように笑ったのだった。
「……ただの戯れ言、と思われるかもしれません。
ですが私は、この少女を守りたい一心で、ここまで試験を続けてきたのです。
が女王の位を望まず、私の…傍にいたいと言うなら、自分の心を偽るなと教えた私はそれに応えたい、いや応えねばならないと存じます」
一気に言葉を吐き出して、ヴィクトールは裁可を待つように目を伏せた。
広間はまた、しんと水を打ったように静まり返った。は前に出て彼を弁護しようとしたが、後ろ手に掴まれた腕はびくともしなかった。
ふいに、愉快そうな笑い声が後方から聞こえた。
「セイラン!」
首席の守護聖に咎められても、笑いをおさめようとはしない。
「失礼、でもいいじゃないですか。
女王陛下の前でこんな大胆なプロポーズをするような人だとは思いませんでしたよ」
面白くてたまらないふうの彼につられて、守護聖の緊張も解かれていく。
「そうだな、なにより試験開始直後からそんなことを言ってお嬢ちゃんを虜にしていたなんて、さすがの俺もかなわないな」
オスカーの言葉に、負け惜しみかよ、とゼフェルが毒づいた。
「ま・が倖せなら私はそれでいいわ。……みんなもそう思ってるんでしょ?」
オリヴィエが言うと、彼らを諌めようとしていたジュリアスすら押し黙る。
控えめで愛らしく、優しい彼女を嫌う者など、彼らのうちにはひとりもいなかった。……ただ幾人かは、少し淋しそうに目を細めはしたが。
ジュリアスが息をつき、皆を代表するように、女王に向かって発言した。
「陛下。……いかが致しますか」
問われて、女王はじっとヴィクトールの顔を見つめた。
「ヴィクトール。ひとつ訊いていいかしら?」
「……はい」
「あなたは、の想いを汲んでそれに応えたいと言ったけれど、あなた自身はどうなの?
教える教えないの関係抜きで、を愛してはいないの?」
真剣に身構えたヴィクトールは、女王の質問に女子学生の好奇心的なものを感じてぎょっとした。
思わず補佐官を見ると、ばつの悪そうな顔で肩を竦めている。
「……い、いいえ。私を信用して戴いた陛下には謝罪のしようもないのですが、私も……その、最初からのことを、い…愛しく思って……」
「そう!」
大汗をかきながらヴィクトールが言い終わる前に、女王は嬉しそうに笑い、に片目を閉じて見せた。
「陛下、いい加減になさいませ。
皆様も、今は即位式の最中なのですよ。時と場所をお考えになって下さい」
和やかな雰囲気の中でただ一人眉をひそめていたロザリアが、たまりかねたように注意を促した。
聡明な補佐官は厳しい顔で彼らを見回す。
粛然とした雰囲気が戻るのを待って、ロザリアは女王に向き直った。
「……それで、どうなさるおつもりですか。
女王候補には即位を辞する権利がありますが、同時に、試験に専念する義務もあります。
また、協力者としての中立を逸した態度も問題です。然るべき処分を与えるべきだと思いますが……」
処分と聞いて、の顔色が青ざめたが、ヴィクトールは動揺のかけらも見せない。
もとより穏便にすむとは思っていなかった。教えた自分にできなかった事を、繊細でか弱い少女が身をもって示したとき、彼の心は完全に囚われてしまっていたのだ。
ただ相手に累が及ぶことだけは避けたいと、二人は同じことを思い、女王に発言を求めようとした。
「……そうね。では、守護聖や協力者たちを退室させなさい。二人への処分は追って通知します」
女王はロザリアにそう言い、静かに目を閉じた。
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