「ヴィクトールさま、こんにちは!」
執務室に足を踏み入れたは、中の様子に気付いて首を傾げた。
室内は薄暗く、窓から差し込む陽光だけがあたりを照らしている。
いつもは机から立ち上がって迎えてくれる彼がそこにいないのを見て取り、はとりあえずライトのスイッチを押した。
パッと明るくなった部屋に、やはりヴィクトールの姿はなかった。
「どうなさったのかな……、日の曜日だからお仕事でもないだろうし……」
呟いて、そばの椅子に腰掛ける。
前にこんなことがあった時、彼は、『俺が帰るまで待っててくれ…いやもちろん、そうしても良いと思ったのなら、だが』と照れながらに告げたからだ。
彼女は今日、一大決心をしてここへ来た。
前日の謁見で、女王は彼女達に試験の終了が近いことを教えたのだ。
「宇宙には生命が満ちあふれ、次々と新たな命を生み出しています。
二人とも、よく頑張ってきましたね」
と同年代の女王は、そう言って候補たちの労をねぎらった。
新宇宙の女王にはどちらが、とのレイチェルの質問には、補佐官と顔を見合わせただけで応えてはくれなかったが。
「でもね、あなたたちのどちらかが女王になったとして、もう一人は補佐官を要請されると思うわ。
私とロザリアのように、ふたりで助け合って宇宙を導いていけるといいわね」
瞬間、はとっさに俯いて顔色を隠した。
女王そして補佐官。現女王の言葉が、逃げ道はないのだと念を押している気がして、胸が苦しくなった。
女王になってもならなくても、今の彼女には同じこと。新しい宇宙へ行くことは、そのまま愛する者との別れを示しているのだから。
だからといって、人々の期待をはねのけて留まることが自分にできるとは思えない。…両親から受け継いだ性格を恨めしく思ったことなど、今まで一度もなかったのに……。
こんな気持ちのままもう二度と会えなくなるのが嫌だった。拒絶されても、受け入れてもらえなくても、自分の想いを知ってほしかった。
だからこそ、は今日彼に会いに来たのだ。
ずっと好きだった、と、ひとこと伝えたくて。
「ヴィクトールさま、どうされたのかしら……」
しかし、その日はいくら待ってもヴィクトールは戻って来なかった。
もう陽が沈み始めている、女王候補が自由に出歩けるタイムリミットだ。
だが何故か、は部屋を出る事ができなかった。今日を逃せばもう、二人きりで話すことはできないかもしれない。
どんどん暗くなる空を焦りをこめて眺めながら、彼女は一心にヴィクトールを待った。
なにか…あったのかしら?
そういえば、この何日か会って下さらなかったし……
もしかして、私がここにいることを知っていて、避けて…る……?
独りで待つうちにそんな考えがぐるぐると廻り出し、視界が薄く暈けてくる。
「……誰だ? キールか?」
そのとき。少し乱暴にドアを開ける音がして、聞き慣れた声が耳を叩いた。
「ヴィクトール……さ、ま?」
「!?」
心底驚いた顔をして立ちすくむ彼に、は駆け寄った。
思わずヴィクトールが抱き止めると、今までの緊張が一気に切れて、大粒の涙が頬を伝う。
「うっ……く、ふぇ……」
「?? どうしたんだ」
「ふぇぇ〜…………」
こうなるともう冷静に答えられるはずもない。ヴィクトールは、仕方ないなこいつは、と呟いて、きゅっと彼女を抱きしめ直した。
暖かくて、優しい香りがする。嗚咽を繰り返す細い肩、白い指先。
はかなげなその姿が今にも消えてしまいそうで、ヴィクトールの腕は少女をきつく縛めた。
「………っう…ん、ヴィクトールさま、……くるし……」
やがて、少し落ちつきを取り戻したが耐えかねて身じろぎすると、ヴィクトールは我に返って手をゆるめた。
「す、すまん。大丈夫か?」
「は、…い。……ごめんなさい、いきなり泣き出したりして……」
口に出すと急に恥ずかしくなったのか、頬がさっと朱に染まる。
それを見て、ヴィクトールは例えようもない愛しさが込み上げるのを感じた。
このまま連れ去ってしまいたい。女王も宇宙も、全て関わりのない世界へ。
彼女の気持ちも部下の想いも、何もかも無視してか?
フッと自嘲的に笑うと、ヴィクトールは彼女から目を逸らした。
「あの……あの、怒っていらっしゃるんですか……?」
心配そうなの問いに今度はいつものように笑い、手を離す。
「いや。怒ってはいないが、……どうしたんだ。 俺で良ければ聞いてやるぞ」
床に落としっぱなしだった書類を拾い集めて机に置く、その背中に向かって、は意を決して口を開いた。
「……試験が、終わるんです」
ぴたっと、ヴィクトールの動きが止まる。
「まだ、どっちが女王になるかは分からないんですけど……女王になれなかったとしても、補佐官として、新宇宙へ行かなければならないんです。
私…わたし、新しい宇宙になんか行きたくない……!」
「…………!」
ヴィクトールの胸にまた、あの痛みが現れた。
「もう二度と逢えないなんて、いやです……女王より補佐官よりも大切な人がいるんです、私……」
「やめろ!!」
びくっと肩を揺らして、は彼を見つめた。
ヴィクトールは自分の声に驚いた様子で、口に手を当てて呆然としている。
「あ…いや、すまん。……だが、そういうことは関係のない人間には言わない方がいいと思うぞ」
「関…係、ない……?」
「ああ。それは、その“大切な人”に言ってやれ。不安なのも判るが、大丈夫、おまえの良さは俺が保証してやる」
心ない言葉に再び涙を零しかけたは、最後の台詞にきょとんとして目を瞬かせた。
「大切な人、て……。ヴィクトールさま?」
「ん? …いや、もちろん誰かなんてことは聞かないが、……好きなんだろう?」
平静に言えたことではなかった。心臓を潰される苦しみはますます強くなり、息をするのが困難になる。
だが彼は、例えこの二人がうまくいって自分の側で生活することになっても、この芝居を続けるつもりでいた。
将軍などという過分な地位をもらっている自分が、感情ひとつ制御できないでどうするのか。
ここのところ繰り返し呟いている言葉をまた思い出し、彼が少女に退室を促そうとしたとき、
「……好き、です。わたし、……ヴィクトールさまが好きです……!」
今度はヴィクトールが目を見張る番だった。
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