「ま……あ」
その部屋に一歩踏み込んだ彼女は、呆れ返って声をあげた。
今朝そうじした時からはとても予想もつかないほど、そこはちらかり放題にちらかっていたからだ。
散乱する書類はもとより、経済雑誌、商品サンプル、山のような手紙の束にミスプリントらしい紙くず。
広い書斎は文字どおり引っかき回したような有り様だった。
「だんな様……いったい何をしていらっしゃるんですか。こんなに遅く帰っていらして」
「見れば分かるやろ。仕事や」
問われた彼は、答える時間も惜しいといった感じでパソコンに向かっている。
がくる以前のようなその姿に、女中はため息をついた。
「……様は」
ぴくりと、青年の背中が反応する。
「今夜は戻られないとシェフにおっしゃったそうですね。何かあったのですか」
「別になにも。今日は帰ってこん、そんだけや」
「そうですか……」
正攻法で駄目と知るや、彼女はさりげなく手を変えた。
「様のお誕生日のために、せっかく用意したそのプレゼント、ムダにならなければいいですけど」
「な、なんで……!」
その言葉にまともに反応してしまった彼は、すぐに舌打ちして口をつぐんだ。
そばに置いていた箱をポケットにつっこみ、再び机に向き直る。
「………知っとったんか。おまえは」
ぼそりと尋ねる青年に、女中はすまして答えた。
「いえ、詳しいことは存じません。
ですが様がここにいらしてもうかなりになりますし、だんな様ならお考えになるかと」
「かなわんなあ」
苦笑して、青年は椅子の背もたれに体を預けた。
「おまえに分かることが……にも分かっとったんかいな」
その笑いは、いつになく生気に欠けたもので。女中はいきなり表情を硬くして彼に歩み寄った。
「だんな様。私はお二人のことを詮索するつもりはございませんが、様のことなら多少なりともお役に立てるかもしれません。
もしよければ、事情をお話になってはくださいませんか」
詮索、という言葉に顔をゆがめた青年は、そのまま天井を見上げて目を閉じた。
「……は……俺のことを好きでいてくれるんやと、思うとったんや。何の疑いもなく、それを信じとった。
別にずーっとって訳やない、せやけど、俺の傍にいてくれる間はそうなんやと……それでが倖せなんやと、思うとった」
「はい」
「せやけど。もしも、がほかの人間を好きになったらどうやと思う?
俺の傍にいて……倖せやろか」
女中は心底驚いて彼を見つめた。少女が彼以外の人間を好きになる?
そんな可能性があるとはとても思えなかったからだ。
「俺の傍にいるが、それを言い出せるやろか。に頼り切って、いっつも甘えまくっとる俺に。
もしもそうなら、はそれを言えんと悩むんやないかと………思うたんや」
「……はあ。ですが、もしもそうなら、でしょう?」
意を介しない彼女に、青年は一連の出来事を話してきかせた。
最初はふんふんと聞いていた彼女は、次第に無言になり、最後には額に手を当てて黙り込んでしまった。
「せやから俺は決めたんや。があいつを好きなんやったら、あいつの傍におった方が倖せやろ。
俺に気兼ねなんかせんでええ」
「確かに……それはそうですが……」
その口調には、単純にしか物事を考えられない子供に教えてきかせるような響きがあった。
「……では。逆に、様があなたのことしか考えていなかったらどうするのですか?」
「え」
「愛している人にとつぜん疑われて、ろくに説明もしてもらえず、ケンカして別れても追いかけてもこない。迎えにも来てくれない。
そんな状態で、あの様が自ら戻ってこられるとお思いですか」
「…………」
「様があなたを愛していらして、あなたの傍にいることだけを望んでいたとしても、もう戻ってはこられないのですよ。
あなたが迎えに行かない限り。あなたがご自分の意志を伝えない限り」
「……………………」
向こうを向いたまま、青年は答えない。
今度ばかりは軽くいなす余裕もなく、彼女は真剣に言葉を継いだ。
「だんな様が様を大切に想う気持ちはよく分かります。彼女の望みは、たとえそれが何であろうと叶えてあげたいと思うことも。
ですが、あなたとあの方はちがう人間なのです。
様にとって何がいちばん倖せか、それは様にしかわかりません」
最後にそっと背中に触れる。できる限りのいたわりと願いをこめて。
「様は……だんな様の傍で、倖せだと思いますよ」
「………にとって……何が倖せか………」
独りになって呟いた彼は、それでもかたくなに首を振った。
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