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 君は僕の宝物 1 

パタパタパタ。

遠くから、軽い足音が近づいてくる。
テストの添削をしていた零一はぴくりと眉を動かし、顔を上げた。
そのまま静かに席を立つと、職員室のドアに歩み寄る。

「……こら!」
「わっ!?」
ガラッといきなり開けられたドアと、かけられた叱責に。
廊下を走っていた少女は、驚いて急停止した。
「やっぱり君か、。廊下を走ってはいけないといつも言っているだろう?」
厳しい顔で言う。彼女は少し首をすくめ、上目遣いで彼を見上げてそして、にこりと笑った。

彼女はいつもそうだった。
どんなに厳しく叱っても、おびえたり怖がったりすることがない。
他の生徒は、彼がこんな風に叱ると震え上がって萎縮したり泣き出したりするのだが、彼女だけはいつも彼の説教を笑顔で聞いた。
まるで、それに慣れているかのように。

「ごめんなさーい」
「まったく……」
素直な反応に満足したのか、零一の表情から厳しさが減る。
しかし、少女がまた走り出そうとするのを見て、表情を戻してその襟首を掴んだ。
「こ・ら!言ったそばからこれか!?」
明らかな怒りを含んでそう言うと、少女は掴まれた襟を振り返って抗議する。
「いやーん。せんせぇ、はなしてー」
零一はずるずると彼女を引き戻しながら、怒鳴る。
「いやーんではない!君は、どうしてそう落ち着きがないのだ!もう小学生だろう!?」


零一が、この私立小学校に赴任してきて、もう1年になる。
赴任する前は、小学生への指導が勤まるのだろうかと不安もあった彼だけれど、それでもなんとかうまくやれている。
ただ小学生に分かるように、自分の理論を説明するのだけは、いつまで経っても苦手だった。

「廊下を走ると他人と接触する危険が多く、また転倒する可能性も相当に高まる!
 君の年になれば、そのくらい理解できて然るべきではないのか!」
思わずそう言うと、少女はきょとんとした目をして彼を見上げた。
「せんせぇ」
「なんだ!」
「せっしょくるきけんって、なに?」
「………」
「てんと?たまかる?ってなぁに?」
「………………」
「ゆーちゃん、わかんないの」
可愛らしく首をかしげる少女に、零一は脱力して肩を落とした。
「つ、つまりだ。……走るのは、歩くより速い。これは分かるな?」
たどたどしく説明すると、少女はぱあっと表情を輝かせた。
「ゆーちゃん、わかる!ゆーちゃんかけっこ一番なんだよ!」
脱線しそうな話に、『そうだな』とだけ答え、続ける。
「歩くより速いと。他のひとにぶつかりそうになっても、よけられない。」
「………」
「それに、ころんで痛い思いをするかもしれない。けがをしたら、痛い薬をつけなきゃならないんだぞ」
最大限努力して、分かりやすく説明すると、少女は泣きそうな顔になって首を振った。
「ゆーちゃん、おいしゃさん、きらい……」
「だったら。もう走らないと誓えるな?」
「うん……」
しおらしく頷く少女に、零一は身をかがめて目線を合わせ、ぽんぽんと頭を撫でた。
「いい子だ。もう下校時間が近いから、そろそろ帰りなさい」
「はぁい!せんせぇ、さよーならぁ」
「寄り道するんじゃないぞ」
てくてくと軽い足取りで歩き始めた少女に声をかけた時。
「あっ!こうえんで、まーくんと、なっちゃんと、あそぶんだった!」
思い出したように言って、遅れるとばかりにパタパタと駆け出す。
「な…!、寄り道は駄目だと……!!こら!走るなというのに!!」
何を言っても、遊ぶ約束に気を取られた少女はもう、振り向きはしなかった。
零一はチッと舌を鳴らして、自分の机にあった鞄をひっつかむと、彼女を追って校門へ急いだ。

 

◇     ◇     ◇

 

「……くそ。どこだ?」
ハァハァと息を切らせながら、零一は膝に手をついた。
汗が額をとめどなく流れていく。久しぶりに味わう、この感触。
零一はぐいっと片手で汗を拭って、あたりを見渡した。
学校から、ずいぶん離れてしまったようだ。こんな遠くまで彼女は来ているのだろうか?
公園、と言っていたので、少女が行きそうな公園を手当たり次第探したが、そのどこにもあの小さな姿はなかった。

本当なら、ここまで心配しなくてもいいのにと自分でも思う。だが、彼女は特別な学校内ではきちんとけじめを付けているけれど、自分にとって大切な少女なのだ。
はにかむような笑顔も、少しおしゃまな仕草も。全てが愛らしい、零一の宝物のような存在だった。
その彼女が、忠告を無視して遊びに行ったことに。
無意識にイライラしてしまう。
その苛立ちのほとんどが、彼女が言った言葉『まーくんと遊ぶ』というセリフの所為だと言うことに、零一は気づいていなかった。

「まったく……どこに行ってしまったんだ」
口に出すと、寂しさがぐっと胸を突く。
少女が、自分の傍にいないだけで。彼の心にはすきま風が吹くようだった。
以前はこんなことはなかった。自己の理論だけが信じる全てで、何かを不安に思うことはなかったように思う。
そんな無色透明な零一を、こうまで色づけてしてしまったのは、年端もいかぬ少女だった。

……俺は、どうすればいい……?」
夕暮れに近づいていく空を見上げながら、零一は小さく息をついた。

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