「」
扉が後ろで開いたのを感じて、天之橋は振り向きながら微笑んだ。
デッキに吹く海風にもう冬の厳しさはなかったけれど、念のためと言い聞かせたとおりセーターに着替えてきた彼女に、少しだけ言い淀んで。
「すまなかったね。その……急に呼び出したりして」
「いえ、あの、……嬉しいです」
母親の言動を謝ろうかとも思ったけれど、逆効果になりそうだからやめておく。
少女は気を取り直して、満天の夕焼けを背負った天之橋を見つめた。
手すりに手を掛けて、こちらを振り向いている彼。
やわらかく細められている藤色の瞳は、今まで見た中でも一番穏やかで。
あふれる愛しさや情熱や甘い痛みをもう隠さなくて良いのだと、言っているような気がした。
そんな彼が自分を待っていてくれることが嬉しくて、思わず小走りになって近づく。
「とっても、きれいです!」
「ああ……そうだね。陸の上でも美しいけれど、海の上で見ると何倍も綺麗に見えるよ」
「いえ、そうじゃなくって」
「うん?」
くす、と笑った彼女を、天之橋は不思議そうな目で見た。
それに首を振ってから、少女はゆっくりと彼の横に立ち、肩を並べてみる。
「……………。」
手摺りに肘をついていても、彼の肩は自分よりも大分高いところにある。
それは当たり前なのだけれど、なんとなく気に入らなくて。
背伸びをしても届かないのに業を煮やして、少女はいきなり手摺りによじ登った。
「!?」
満足そうに手摺りに座った彼女を、天之橋は慌てて抱き留める。
「危ないから降りなさい!」
「大丈夫ですよ、波もないし」
「もし落ちたらどうするんだ。まだ泳げる季節ではないよ」
「落ちたら冷たそうですね〜」
「……………。」
嬉々として波間を覗き込む彼女に、ため息をひとつ。
「天之橋さん。前みたいにイルカに会えるってこと、ないですか?」
「………この辺はポイントだから、会えるかもしれないけれど」
まったく君は、ともう一度ため息をついて。
天之橋は廻した手を引き寄せて、無防備な唇にキスを落とした。
彼女の肩が少しだけ震えて、シャツの胸が掴まれる。
「………っ」
重ねられた暖かさに、一瞬、情景がフラッシュバックした。
そういえば。
すっかり忘れていたけれど。
一昨日なにか、色々と、恥ずかしいことがあったのではなかっただろうか?
今更動揺するのも馬鹿らしいと思ったけれども、一度思い出してしまったらもう、いてもたってもいられなくて。
少女は思わず、手を突っ張らせてそれを逃れた。
「………?」
心配そうに覗き込む彼に、違う、そういうのじゃなくて、と言いたいのに声が出ない。
黙って俯いてふるふると首を振るのに、躊躇って。
それでも手摺りの上の身体が落ちそうなほど体勢を崩しているから、仕方なく抱き上げて船縁から少し離れる。
その目の端に、映る影。
声が微笑を含んでほどけた。
「。見てごらん」
「……え?……あっ!」
おずおずと上げた顔が、イルカを見つけてぱっと輝く。
その頬は、夕焼けのフィルターの中でも分かるほど真っ赤になっていて。
彼女の拒否の原因が分かった天之橋は、思わずくくっと笑いを漏らした。
「大丈夫かね?……顔が真っ赤だよ?」
安心したように微笑まれると、ますます頭に血が上る。
少女はイルカから目を離さずに、怒ったように呟いた。
「夕焼けが反射してるだけですっっ」
「そうなのかい?」
「そうです!!」
言い切られるのに逆らわず、天之橋はそうか、と呟きながら腕の中の彼女の髪にキスをした。
FIN. |