ぱち、と。
いつもの寝惚け癖が信じられないようなクリアさで、少女は目を覚ました。
「……ぇ?……」
ゆっくりと身体を起こして、周りを見渡す。
いつもと同じ、自分の部屋。
混乱する頭を振って、現実を思い出そうとするのだけれど、なんだか記憶が霞がかっていて確かにならない。
「え、うそ…!?」
もし、全部が夢だったら。
急に不安に駆られて、少女は慌ててベッドを降りると、転げ落ちそうな勢いで階下へ降りていった。
◇ ◇ ◇
「あら?」
パジャマ姿でマグカップを傾けていた水月は、足音を響かせて駆け込んできた娘を不思議そうに見やった。
「どうしたの?私より遅く起きてくるなんて珍しいわね〜」
「え……」
その言葉に思わず時計を見ると、時間はすでに正午を廻っている。
水月はくすくす笑いながら、目の前のサンドイッチを指さした。
「あんたの分もあるから、食べなさい。お茶のむ?」
「……うん。……おかぁさんが作ったの?」
聞きたいことは山ほどあるのに、そんなどうでもいいことが口をつく。
キッチンに立ってお茶を淹れながら、水月は大袈裟に肩をすくめた。
「そんなわけないでしょ。多分、尽が作っといてくれたんだと思うけど」
「尽が?」
「午前中に出掛けたみたいなんだけど、私が起きた時にはココにあったから。
ほんと、できた息子よねえ。あんたよりずーっと料理上手で、手際も良くて」
「……おかぁさんに言われたくないよ」
彼女が作れるものといえば、お茶とお菓子くらい。目玉焼きも焼けないのに、どうしてあんな緻密なデコレーションが出来るのかと、いつも不思議に思う。
ため息をついてから、少女は思い出したように目を瞬かせ、お茶を運んでくる母親に向かって拳を握りしめた。
「そ、それよりも……あの……昨日、のことだけど」
「昨日?」
怪訝な顔をされるのに、一瞬息が止まるかと思った。
けれど。
「なぁに、また天之橋君の話なの?もう知らないわよ、あれもこれもって聞きたがって。
15年も前の話なんだから、覚えてないことも多いの!」
言い聞かせるように呟いて、水月は嫌そうな顔をぷいと背けた。
それでようやく思い出す。
昨夜、彼が帰ったあと、夜遅くまで水月を質問攻めにして昔の話を聞いたこと。
起きられなかったのはそのせいか。
ひとつ思い出すと、流れるように記憶が戻ってくる。
昨日の夕方、天之橋と一緒に家に帰ってきたこと。
母と彼が、実は大学の旧友だったこと。
親しげに『水月さん』なんて笑いかける彼に、思わずいらいらしてしまったこと。
母は、娘の目から見てもとても魅力的な女性で(性格はちょっとあれだけれど)。ふたりで向かい合って談笑していると、自分なんかよりよっぽど彼に似合っているように見えた。
彼が好きなお茶だって、絶対に水月より美味しく淹れられない。昔の思い出話もできない。母ならばきっと、彼だけでなく花椿とも対等に話が出来るのだろう。
でも、つい前の日に好きだと言ってもらったのは自分。それは、嘘ではないはず。
そう思った途端に、名字で呼ばれて。
理由は分かっていたのだけれど、その後はもう、雪崩が起きるように勢いがついてしまっていた。
ふ、と気付いて、少女は手元に視線を落とした。
昨日のことが夢ではない証拠のように右手の薬指には、銀色のリング。
「…………あ」
目の前で指を広げてそれを凝視した娘に、水月は意味ありげに笑ってテーブルに肘をついた。
「“私が君を迎えに行くよ”……ですって」
「!お、おかぁさん!」
「“たとえ親御さんに許可をもらえなくても、絶対に君を離さない”あああああ、あっついわねえ。
ていうか日本人の吐く台詞じゃないわね!一体どこの国の王子様よ?
女の子の親の前であんなことができるなんて、天之橋君も大きくなったのねえ〜(ほろり)」
「勝手にしんみりしないでよ!天之橋さんはおかぁさんの子供じゃないんだからね!」
かっと頬を染めながら、少女は照れ隠しのように語気を荒くした。
水月はにやにやと笑っている。
「…………知らないっ」
「あら」
その時、そばの電話が軽快な音を立てたが、少女はそれを無視してダイニングテーブルについた。
彼女のむくれた態度には何も言わず、水月は軽い足取りで電話を取ると、驚いたように声をあげた。
「お・ひ・さ・し・ぶり 今日はどうしたの?」
どうやら知り合いらしい電話の相手と水月が話している間に、目の前に置かれた紅茶を手に取って、ひとくち飲んでみる。
やっぱり、どうにも敵いそうにない味。
でも、大丈夫。彼は待っていてくれるはず。
昨日、自分の指に嵌まる予定ではなかったこの指輪は、その証し。
例えどんな場面でも、彼は思ってもいないことを広言する人ではないから。無理に言わせてしまったことは心苦しいけれど、あれは本心だと分かるから。
何の取り柄もない、女として母親にだって負けてしまうような自分でも、ありのままを好きでいてくれる。それが嬉しい。
これから色々なことをがんばって、いつか彼と肩を並べて歩けるようになりたい。
いつか、その時が来たらきっと。
くすりと微笑んで、少女は指輪を指から抜き取った。
それをちらと見、水月は受話器に向かっていた声を急に大きくする。
「しっかしマメね〜。これで三日連続よ?そんなに暇なの?」
「……?」
「さては、目が覚めたら全部夢だったような気がしてるんでしょ?もそんな顔して起きてきたわよ。
……うそうそ、携帯が繋がんないくらいで普通、慌てて家の電話に掛けてきたりしないって」
「!?」
「まぁ、ねー。娘にプロポーズされて、それを受けた親としては。
ラブラブデートの誘いを断る理由もないけど?」
「おかぁさん!!!??」
ダッシュして電話を奪い取った少女に、水月は鼻歌を歌いながらテーブルに戻っていく。
「…………やぁ、お嬢さん。ご機嫌いかがかな」
耳に当てた受話器が、微妙に疲れた彼の声を運んできた。 |