「ふわー……」
天井を見上げてぽかんと口を開けていた少女は、案内するギャルソンの声に慌てて居住まいを正した。
「さ、。お手をどうぞ」
三歩前の天之橋が、微笑みながら手を差し伸べている。
いつもと変わらないその動作が背景にあまりにも溶け込んでいて、逆に照れてしまって上手く笑えない。
動きのぎこちない彼女に、くすりと笑って。
しかし口に出しては何も言わず、天之橋はおずおずと出される手を取ってギャルソンに続いた。
「あまり、気に入らなかったかな?」
席に着き、ようやく落ち着いた彼女に向かってからかうように言うと、少女はぶんぶんと首を振って頬を染めた。
「そ、そんなことないです!すごくきれいです……特に、あれが」
見上げる先には、天井のステンドグラス。
二重採光になっているのだろう、高い位置にあるそれは日が暮れ始めた現在でも美しい光を放っていて。
つい、学園の教会でのことを思い出してしまう。
彼女が気に入る確信のあった天之橋は、期待通りの反応に目を細めた。
「ここは私の父の代から懇意にしていた店でね。あまり堅苦しくはない店だから、楽にするといい」
「は、はい」
そうは言っても、フランス料理などにあまり縁のない彼女は、緊張の色を隠せるものではない。
天之橋はそれを微笑ましく見て、メニューは任せてもらって良いかな、と訊いた。
常ならば彼女の意見を最優先にして、二人で長い間メニューを悩むことを楽しみにしている彼だけれど。
ここはそうした方が、彼女の困惑を減らせるのではないかと思ったから。
「ええ、おまかせします」
案の定、少女はほっとした顔をして答えた。
「いらっしゃいませ、天之橋様。食前酒は如何致しましょう」
顔見知りのソムリエが、きれいな礼をしながらリストを差し出す。
それを広げつつ、視線はソムリエの方を向いたままで。
「私はいつもので構わない。それと……」
言いかけて、少し悩む。
彼女の好みそうな食前酒は、いくつも思いつくのだけれど。
あまりアルコールを飲ませてしまうと、以前の二の舞にならないとも限らない。
しばらく考えて、天之橋は少女に聞こえないように小さく耳打ちした。
「……それと、ピーチャー・キールを。アルコールは抑え目で」
初老のソムリエは心得たような表情をして頷き、それから、と付け加えた。
「前回おいで下さったときに当方の不手際でお出しできなかったワインを、ディレクトールが是非にと申しておりますが……」
「…………」
少しだけ気遣う視線を受けて、また考えて。
結局、頷く。
今日はワインを頼むつもりはなかったけれども、支配人の厚意を無碍にしたくはなかった。
前回、無理かもしれないと分かっていて在庫を尋ねたのはこちらの方で。
ようやっと飲み頃の走りを迎えたような熟成度のそれを、レストランやソムリエとしてはあまり出したくないだろうに、わざわざ探して仕入れてくれたのが分かるから。
まあ大丈夫かと、天之橋は判断した。
そのワインは、どちらかというと口当たりのよい飲みやすい種類ではなくて、おそらく少女が好むものではない。いくら酒に弱いと言っても、アルコールの薄い食前酒と一口二口のワインくらいでは問題ない筈だ。
そう思いながら運ばれてきた食前酒を勧めると、少女はひとくち飲んだ途端に表情を輝かせた。
「すっごくおいしいです!」
素直な賛辞に、彼どころか運んできたソムリエの頬も弛む。
「それはよかった」
嬉しそうに笑う彼女を眺めながらワインのホストテストにOKを出し、料理が来るまで色々と話をして。
そのうちに注がれたワインを、確かめるように持って首を傾げた少女に、いそいで注意する。
「これは、前回私が頼んだものでね。君には少し飲みにくいかもしれないから、無理をしてはいけないよ」
こくんと頷く少女。
それを頼んだのは単なる思いつきだったが、まさか彼女と一緒に飲むことになるとは思ってもみなかった。
まだボトルに詰められてから19年しか経っていない、彼女と同い年のワイン。
ソムリエとの会話で、自分の好きなブランドのその年が最高のヴィンテージイヤーであることを知り、思わず在庫を尋ねたものだ。
当たり年であるが故に熟成期間は40年とも50年とも言われるそれを、19年ほどで飲んでしまうのは少しもったいなかったけれど、味ではなくヴィンテージを味わってみたいと思ったのは初めてのことだった。
そんなことを考えながらワインを含んだ天之橋は、聞こえた声にそれを吹き出しそうになった。
「あ。……おいしい」
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