天之橋は手首の時計を気づかれないように確認し、心の中でため息をついた。
「それで。氷室先生の物言いには、私だけじゃなくって皆まだ慣れてなくて、数学の時間だけ皆とおんなじ感じが味わえるんです」
目の前の少女は、少しだけ興奮気味に喋っている。
いつもの放課後、いつもの理事長室で。
いつものお茶会より少し早い時間、彼は目の前の少女とソファで向かい合っていた。
テーブルには少し冷めたお茶。しかし、いつものようにここで淹れたものではなく、給仕室から運んでもらったものだった。
「……申し訳ないのだが……」
話の合間を縫って、なるべく落胆させないようにと気遣った声音で、天之橋は言葉を挟んだ。
「実は、これから来客の予定があってね。……すまないが」
そう告げると、彼女はあっと声を上げて頭を縮こまらせた。
「も、申し訳ありません。つい話し込んでしまって……」
先程までの生き生きとした話しぶりとは打って変わり、おどおどした様子になる。
それが予想できていた天之橋は、彼女を怯えさせないように微笑んだ。
「いや。興味深い話をたくさん聞かせてもらって嬉しかったよ。学園の運営にしても、生徒本人の声は大切な情報源だからね。
よかったら、また話をしに来てくれるかな」
そう言うと、彼女はほっとした顔で頬をほころばせた。
「………はい。喜んで」
その時。
コンコン、とノックの音が室内に響いた。
「あ。お客さまですか?」
「あ、あっ」
気を利かせた彼女が、立ち上がってドアを開けに行くのを。
天之橋は焦って止めようとしたが遅かった。
「いらっしゃいま……あれ?」
ドアを開けた先に、来客ではなく同じ制服を着た少女が立っていることに、疑問を発して。
次の瞬間、彼女はあわてて頭を下げた。
「あ…!ご、ごめんなさい……お客さまが来られるとお聞きしたので、その方だと思って……」
「え……、あ」
ポットを抱えた少女も、驚きを隠せないままに一礼する。
そして硬直している天之橋に向き直り、ポットと荷物を抱え直した。
「え、と……。お客さまがいらっしゃるんですか?……あ、そうしたらこれ……」
手にしたティーセットを、かたんとテーブルに置く。
「よろしかったら使ってください」
「………いや……その」
そう言われ微笑まれても、天之橋には言葉が出ない。
「では、失礼します。ポットはまた取りに伺いますから。お邪魔なようなら給仕室に下げてもらってくださいね」
それだけ言って、少女は丁寧に一礼すると、ドアを閉めて出て行った。
「………っ!」
「じゃあ私も、そろそろ……理事長?」
暇乞いをする彼女を、気に掛けることが出来ないまま。
天之橋は大幅な歩調で、理事長室を出た。
◇ ◇ ◇
「!」
後ろから掛けられる声に、振り向いて。
少女は、あれ?と声を上げた。
「天之橋さん?お客さまは……?」
その言葉に苦々しげに眉を顰め、言いにくそうに弁解する。
「いや……客というのは、その……君のつもりで」
「私?」
少女は、目をぱちぱちと瞬かせて彼を見た。
「え?どうしてですか?私、別にお約束しているわけではないですけど」
「い……いや、そうなんだが」
「それに、さっきの子、水族館で会った子でしょう?
あの時のお言葉を借りれば、今日は私、エスコートされているわけでもないし、先約でもないですけど」
「……そうなんだが」
不思議そうに首を傾げて告げられる言葉は、天之橋を責めている色は微塵もない、事実確認だけの台詞で。
だからこそ、責められている気分になってしまう。
「だが、その……あの子はまだ学園に来て日が浅いから、日常のたわいないことを話す相手がいなくて、だね。
ただそれを話しているだけで、特に用があって来ているわけではないのだよ?」
だから別に構わないんだ、と、焦りのあまり思わず失言してしまった直後。
天之橋は絶句した。
すっと俯いた少女の瞳が、少し哀しそうに歪んだのが見えたから。
「あの……私も、……特に用があってお伺いしているわけではないです……けど」
両手をスカートの前で握り、そう告げる彼女に、天之橋は二の句が継げなかった。
それでも必死で、誤解を解こうと試みる。
「違うんだ。その、君とのお茶会は、私にとっては日々の癒しとなる大切なもので……その……」
頭の中で必死に言い訳を組み立てる彼に、少女は一度息をつくと、顔を上げて笑顔を見せた。
「……天之橋さん。気を遣わないでくださいね?」
「えっ?」
思考を中断して、彼女を見る。
「私、天之橋さんがお茶を淹れて欲しければ、いつでも伺います。
でも、私に気を遣ったりしないでください。私だってただの生徒なんですから、理事長がそんなことしちゃいけませんよ」
「…………言…っている意味が、よく……分からないが」
ただの生徒、という言葉に打ちのめされながら、天之橋はようやく言葉を絞り出した。
少女は口元に手を当てて、ふふっと笑った。
「お心当たりがなければ、それでいいです。……じゃ、今度はお約束をして伺いますね!」
「あ、……!」
手を振って駆け出す彼女に一瞬だけ手を伸ばしかけて。
結局、天之橋はその手をくっと握りしめた。
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