カツカツッ、と、ヒールの甲高い音がロビーに響く。
深夜近いホテルには人気は全くなく、フロントで待機している従業員以外のものは全て眠っているかのようだった。
自動ドアをくぐり、大理石のロビーを堂々と横切った女性は、フロントに近づくとにっこりと微笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。到着が遅れてしまって」
きれいにメイクされた頬を指でなぞる仕草に一瞬目を奪われた従業員は、はっと我に返ると、丁寧に一礼して彼女を迎えた。
ブランドスーツを着こなし、動作もすっきりと美しいその女性は、彼の目にはキャリアレディか社長秘書、もしくは富豪令嬢のような素性に見えたから。
示された宿泊名簿に名前を記入しながら、女性はふと目を上げた。
「それから……知人が先にこちらに宿泊してるんです。伝言をお願いできますか?」
瞳に示された意志の力に少し圧倒されながら、従業員はマニュアルの返答を返した。
「はい、承ります。御内線いたしますか?」
「いえ、もうお休みになっているでしょうから……紙と封筒を貸して頂けますか」
名簿にサインして手渡し、ホテルの便箋を受け取る。それに走り書きながら、彼女は独り言のように呟いた。
「……くれぐれも、お邪魔にならないように。ドア下に入れておいてください」
「かしこまりました。ではお部屋にご案内いたしますので、しばらくお待ち下さい」
部屋に案内され、ドアマンが丁寧にお辞儀をして去ると、彼女は息をついてベッドに腰掛けた。
誰にも不審を抱かれなかったことに、安堵する。
『あんたの演技力に掛かってるんだからね!』と。彼女の母親は念を押して、彼女を送り出したから。
その日の昼、母親の部屋を訪れた少女は、そこで新幹線のチケットを渡された。
「駅へ行ったら、席を予約するのよ。分かるわね?」
呆気にとられたままの彼女に、クローゼットからスーツを出して。
普段化粧っ気がないくせになんでそんなに持ってるの?と、言いたくなるくらいのメイク用品を出して。
あわてて説明を求める少女に、あっけらかんとして、
「行くのよ、あんたが。天之橋君の所へ」
彼女はとんでもないことを言い出した。
そんなことができるなら苦労はない。学校もあるし、仕事の邪魔をしたらと尻込みする娘に、水月は厳しい顔をした。
「行きたくないなら行かなくていいけど。あんた、こんなときのためにヒマな大学生やってんじゃないの?」
その言葉に、はっとする。
「天之橋君が、忙しくて来れないから。ヒマなあんたが行けばいいんじゃない。
それに、仕事の邪魔になるかどうかはあんた次第でしょ」
天之橋君もこっちが気になって仕事どころじゃないと思うけどね、と付け加えて。
水月は少女にメイクをし、スーツを着せる。
「大学生が泊まるには、高級すぎるホテルだから。OLに見えるようにちゃんと演技するのよ」
いつのまに調べたのか、彼の泊まっているホテルへの道順のメモを出し、一緒に自分名義のクレジットカードと免許証を渡す。
「まぁこれだけ作ってたら、変な行動して怪しまれなければ大丈夫だと思うけど」
じゃあいってらっしゃい、と。
少女は、さっさと家を追い出されてしまった。
「あ、言っとくけど、カードで使ったお金は貸しだからね」
そんな言葉も忘れずに。
そのままここに来ることに、抵抗を感じなかったわけではない。
しかし、水月の言った言葉……彼が動けないから自分が行動するのだという言葉は、少女の消極的な考えをひっくり返した。
もしかしたら、母親も。
若い頃、こんなことをしたことがあるのだろうか?
考えたらいてもたってもいられなくて、一目だけ会って帰ってこよう、そう自分に言い訳をして新幹線に飛び乗ってしまった。
明日の朝になったら、彼は手紙を見つけて、自分がここにいることに気づいてくれるだろう。
お仕事の時間が空けば、と手紙には書いたけれど。
彼の性格ならきっと、朝一番に訪ねてくれるに違いない。
そうしたら、まず、謝って。
それからそれから、何て言おう……?
そんなことを考えたとき。
部屋に、小さなノックの音が響いた。
「………?」
少しせわしない、その音。
もしかしたら、何かホテル側に不審を抱かれたか……それとも母親の名前で泊まっているのがばれたのだろうか、と思い、少女は恐る恐るスコープを覗いて。
見えた光景に一瞬目を見開くと、あわててチェーンとキーロックを外した。
「………!」
そこには。
パジャマ姿で、ローブを羽織っただけの。
息せき切った、彼の姿があった。
|