「…………ふぅ」
書類の束を無意味に移動させながら、天之橋は息をつき窓の外を眺めた。
季節はすでに初夏から盛夏に移ろうとしていて、差し込む日差しも自己を強調している。
一時間前から、彼の仕事はほとんどと言っていいほど進んでいない。
夏休み前、期末テストの結果や合宿の予定表など、処理する仕事は山ほどある。
なのに。完璧な手腕を誇る彼が、仕事が難しいのではなく手が進まないという信じられない理由で、予定に遅延を生じさせている。
原因は、天之橋自身よくわかっていた。彼女の所為だ。
大学へ進み、勝手のわからない初めての定期テストを迎える少女に対し、彼はつい「学業を優先させなさい」と気遣いをしてしまった。
それは当然、彼の本意ではあったのだが、しかし。
それによって、彼女に会えない日がすでに、二週間近く続いている。
天之橋はため息をついた。
何度も、彼女の家まで行って一目でも会おうと思ったり、実際家の近くまで行ってしまったりしたのだが。
その度に、彼女の邪魔をしてしまうのではないかという思いが頭をかすめ、尻込みしてしまう。
たまに電話をしても、少女はどこか普段とは違う口調で受け答えをしていて。
この数日は、それさえためらわれて掛けていない。
今までずっと、人生を彼女無しで過ごしてきたのに……と、天之橋は甲斐なく思う。
彼女に逢うまでの何十年かと、出逢ってからの三年間と。
そのふたつがどれほど比較にならないものかを、再認識してしまう。
在学中は、毎日でも逢うことが出来たのにそんな子供のようなことを考え出して、また手が進まなくなる。
彼女はいつも、部屋の中央のソファにちょこんと座って。
お茶を淹れ、焼いてきたお菓子を披露し、笑ったり拗ねたり驚いたりしながら、まっすぐ自分を見つめていた。
時々見せる意味ありげな態度が、期待して良いものだったと、今は分かる。
なのに。想いが通じ合った今の方が逢える時間が少ないなんて、皮肉なものだ。
ふと、書類の上に肘をついてしまっていたことに気づき、彼は席を立った。
顔でも洗って、気分を変えてこよう。
そして、どんなことをしてでも今日中にこの仕事を終わらせて、彼女に電話しよう。
そう決心しながら入り口に近づき、開けようとしたとき。
ばん!と、ドアが開き。
髪をお下げにして眼鏡をかけた女子生徒が、理事長室に駆け込んできた。
「お…っと」
思わず、勢いを抱き留める。そうしないと、転んでしまいそうだったから。
「……っ」
制服姿の女子生徒は、転びそうになって支えられた体制のまま、沈黙する。
しかし、天之橋はすぐ、違和感を感じた。
「!?」
急いで、密着して顔も見えないその身体を引きはがしながら。
確信を持って、叫ぶ。
「!?」
果たして。
それは、すでに卒業して久しいはずの……彼の少女であった。
◇ ◇ ◇
名前を呼ばれ、はにかむような笑顔を向けかけた少女は、はっとして開いたままのドアを閉めた。
そして天之橋に向き直り、小声で囁く。
「お願い、天之橋さん。わけは後で話しますから、助けてください!」
「あ、ああ?」
訳も分からず、頷く彼に。
「私はここにいませんから。いないって言ってくださいね!」
そう言うと、だっと走って執務机に駆け寄り、その中に隠れる少女。
天之橋が疑問符を発する間もなく、ドアが高らかにノックされた。
「失礼」
ドアを開けたそこには、厳格な数学教師の姿。
「氷室君。……どうしたんだね?」
「今。こちらへ、女子生徒が一人来ませんでしたか?」
苦虫を噛み潰したような表情で、そう尋ねる。
「女子生徒……?いや、見ていないが」
答えると、彼は明らかに不審な目をして天之橋を見た。
「虚言や隠匿は、人として誉められたものではありませんが……」
「氷室君」
天之橋は静かに、しかしたしなめるような口調で返した。
「何が言いたいんだね?私は書類の整理で忙しいのだよ。
特に、吹奏楽部の合宿予定の書類は、今日中に処理してしまわないと困るだろう?」
「…………」
何か言いたげに一瞬口を開きかけた彼は、舌打ちしたそうな表情を見せると、一礼して立ち去った。
ドアを閉め、念のため鍵を掛ける。
理事長室は重厚に作られていて、もしドアに耳を付けたとしても、中の会話が聞こえることはない。
それを頭の中で確認して、天之橋は振り向いた。
「もういいよ。出ておいで」
そう呼びかけると、少女はごそごそと机の下から這い出し、制服についたほこりをぱたぱたと落とした。
「あ〜…びっくりした」
「驚いたのはこっちだよ」
そう言いながら、彼女が確かにそこにいることに、極上の笑みが浮かんでしまう。
急いで傍に行こうとすると、先に彼女が駆け寄ってきた。
「天之橋さん!」
勢いをつけて、抱きつかれる。
少しかがんでそれを受け、天之橋はそのまま彼女を抱き上げた。
自分より高いところまで上げた少女の目線に、10cmの距離で瞳を合わせる。
「すごく、あいたかったです……」
恥ずかしげに囁く彼女に。
「私もだよ」
短く答えて、天之橋はその頬に唇を寄せた。 |