どれくらいたっただろうか、ドアがノックされるのに目を上げて。
腕時計を確認すると、もう授業は終わっている時間。
それで誰なのか見当がついて入室を許可する。
「やぁ、今日は個人的な客が来ているので遠慮するよ。君ほどきれいに掃除出来ないが、明日の君の負担にならないように、ゴミくらいなら自分で捨てておくからね。」
「そんな、理事長にゴミ捨てなんかさせられません!明日わたしがしますから、お邪魔でなければそのままにしておいてください。」
「ありがとう。いつもすまないね。」
ペコリと頭を下げて出ていく少女を微笑ましく見送って、また書類に目を落とし、しばらくたって。
妙に引っかかるような違和感を感じて、ソファで寝息も立たないほど爆睡している花椿を見た。
確か、髪はあれくらいで…目立たない感じの…?
一ヶ月ほど前から理事長室に掃除当番で来ている彼女は、クリスマスパーティにも来ていた。
挨拶されたのも記憶にある。
目立つタイプではないが、野に咲く可憐な草花のように、作れない自然な愛らしさのある女の子。
あの時少女の着ていたのも、確か白い服だった。
記憶の糸を探りながらそこまで思い返すと、天之橋は急に立ちあがって、書類棚を開けた。
「花椿。…起きろ、花椿。」
「……ん〜…なによぉ〜…まだ明るいじゃないの〜〜……」
何度か肩をゆすって、やっと微かに目を開けた彼の前にその書類を示す。
「………………………いたぁぁぁーーーっっっ!!こっ、こっ、この娘よぉぉぉーーーっっ!!!」
絶叫して跳ね起き、書類を掴み、覚醒しきらない身体でダッシュを試み、跳ねこけた彼を、落ち着き払って見終わると。
天之橋がおかしそうに目を細めた。
「彼女はしばらく前からこの部屋の掃除当番でね。さっきお前が寝ていた時も来て、それで思い出したんだ。いや、世間は狭いね。」
「ナニ落ち着いてんのヨ!!!さっき!?さっきって事は!…って事は…まだ校内にいるかもしれないじゃないの!いやぁー!早く、早く探すのよっっ!!」
尋常ではない慌てぶりに気を良くしたように、天之橋がことさらゆっくりと口を開いた。
「まぁ、これで学年も名前も分かったんだし、慌てて探し回る事はないさ。…疲れているようだからゆっくり休んで、また明日、この時間にここにくれば間違いないと思うがね。」
「イヤよ!!だって、だって…そう!アタシのデザイナーの魂が早くあの服を完成させろって言うから!何年生なの!?名前は!?教室はどこ!?」
くっくっ、とこみあげる笑いを抑えながら教室の場所を告げて。
「…もうHRも終わっている時間だから、校門で待っていた方が…」
思い返して声を掛けた時には既にその姿はなかった。
「やれやれ……しかし、今までになかったケースだな。花椿がここまで惚れこむとはね…」
楽しそうに一人言を呟きながら、天之橋は、後を追うべく部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
「花椿?どうしたんだこんな所で…あの娘はいたか?」
教室に続く渡り廊下の上で、食い入るように中庭を見下ろす彼に、天之橋が何気なく声を掛ける。
振り向かない花椿を不審に思ってその視線を追うと、芝生に、少女が楽しそうに笑いながら座っていた。
そして隣には、一人の男子生徒の姿。
「一鶴………自覚、したワ…」
そう呟くと、彼は中庭の光景に背を向けるように窓にもたれて、そのままずるずると座りこんでしまった。
それが恋であったと気付いたのと同時に、彼女の隣には既に男がいて。
楽しげに放課後のひとときを笑いながら過ごしている。
今までの彼ならそんなことでここまで落胆したりしない。
男がいようがいまいが、あれよあれよと言う間に目当ての女性をかっさらい、満足して、『飽きたワ』の一言で片付けてしまっていた。
ただし、天之橋が知る限り、彼が女性に恨まれた事はない。
相手も花椿と付き合っているうちに忙しい彼に愛想を尽かすか、仕事の上での戦友のようになってしまって、男女の仲ではなくなった後も友達としてとても親しい付き合いになるようだ。
しかし、今回はそんな程度の軽い気持ちではないらしく。
平素の彼の余裕の軽口は消え失せてしまって、戸惑いと、傷心と、絶望が膝を抱いた彼のまわりにまとわりついていた。
名前も分からず、会える術もない時間の中、少女の事を考え続けた彼自身も気付かなかった想いは、熟成されて彼の心の大部分を占めてしまっていたのだろう。
天之橋がため息をついた。
「…それで?もう、服はいいのか?…何にもしないでこのまま、でいいんだな?」
「………………。」
「…あの娘はきっと、素晴らしいレディになる。今は野のすみれだけれど、今に大輪の薔薇になる。…私も大いに興味が湧いたよ。」
その言葉にうつむいていた花椿がピクリと反応し、それを横目で見た天之橋がおもむろに窓を開け放った。
「やぁ、お嬢さん。ひなたぼっこかな?…楽しそうだね、そっちへ行ってもいいかな?」
「…なっ!!!」
顔は上げたものの二の句が継げない花椿を気にも留めず、穏やかに笑いながらピンクの薔薇を窓から落とす。
確かそれは、理事長室の机に生けられていた中の一輪。
親友の抜け目のなさに、唖然としていた花椿が思わず立ち上がった。
少女は芝生に落ちた花を拾い、彼を見上げてふわり、と微笑んでいる。
「…その花はシャイだから、私が降りて行くまで逃げてしまわないように掴まえておいてくれるかい?」
そう言い置いて踵を返す天之橋と、少し頬を染めてそれを見送る少女。
自分は、彼女の眼中にはないのか、そう思って肩を落としかけた時。
少女の視線がゆっくりと流れて自分を、見つけた。
ほんの数秒、彼女の瞳には自分だけが映り。
そして自分だけに、また微笑った。
多分、これが自分に与えられた、スタートラインに立てる最後のチャンス。
それなら固まっている場合ではない。
弾かれたように走り出し、渡り廊下の端でちらっと確認すると視線はちゃんと追って来ている。
階段を三段飛ばしで駆け下りながら、勝手に緩んでくる口元を抑えた。
「後悔するワヨ、一鶴?アタシは我先に行くからね。」
天之橋を追い抜きざま呟いて、花椿は不敵に笑った。
FIN. |