「……ありがとう、ございます」
給仕された懐石を勧められて、ようやくいつもの笑顔を向けることができた。
先斗町の茶屋のひとつ。この時期、鴨川に隣接する禊川の上には納涼床が作られていて、夏とは思えない穏やかな川風を受けながら料理を楽しむことができる。
中には、団体席のように大きく作られたものもあるけれども。
いま二人が食事を囲んでいるのは、やっと四人くらいが座れるようなこぢんまりとした床だった。
「大丈夫かね?」
頬に当てていた冷たいおしぼりを離すと、心配そうな声。
少女は笑って、手を振った。
「ぜんぜん大丈夫です。痛くもないですし」
「けれど、後で腫れたりするかもしれないから。一応病院に行っておくかい?」
「いえ、あの……大丈夫、です」
少しだけ俯いて。恥ずかしそうな声で答える。
せっかく会えたのに、そんなことで時間を遣いたくないから。
天之橋はそれ以上勧めはせず、微笑んで彼女を見つめた。
「……え、っと」
場所が違う所為だろうか。状況はいつもと同じはずなのに、何故かどきどきして箸が進まない。
茶碗を持った手が思わず震えるのを見て、天之橋は顔を苦笑に変え、ふと席を立った。
「すまないが、少し席を外しても良いかな」
「あ……は、はい」
脇をすり抜け様、さりげなく撫でられた頭がくすぐったかった。
独りになった途端、大きく息が零れる。
「あー……びっくり、した」
まだ少し、現実でない感じがする。
ここは京都で。
理事長の立場の人間が、来るはずもない修学旅行の最中。
予定外にひとり寂しく、一日を過ごすはずだったのに。
なのに、夕方まで一緒にいられるなんて……夢みたい。
どうにもこうにも、漏れてしまう笑み。
気温は高いけれど、川風は涼やかで。
さっきまでどうでもよかった川や橋にも情緒を感じるだなんて調子が良すぎるだろうか?
自分の考えがおかしくなってくすりと笑ったとき、少し強い風が吹いた。
「あ、あ!」
向かいの桟に掛けていた彼の上着がふわりと風をはらみ、乾いた音を立てて落ちるのを見て、少女はあわてて立ち上がった。
座っている床は檜のベランダのようなもので、かなり大きく隙間が空いている。
ポケットに入れているものが、落ちたり飛ばされたりしたら大変。
落ちた上着と少しだけ散らばった小物をとりあえず飛ばないように押さえて、少女は注意深くそれを拾い上げた。
「あれ?」
手の中にあるのは、飛行機のチケット。
飛行機で来たんだ、早いもんね、いいなあ……とのんきに考えてから。
ふと、日付が目に留まる。
二枚あるチケットの、片方は半券。今日の午前中の便。
しかし、もう一枚のチケットの出発日時が……今日の、夕方?
「???……え?」
確か先ほどの話では、明日の朝早くに帰るのだと言っていた。
今夜の商談相手と同行するので生徒と一緒には帰れないけれど、と笑っていたはずなのに……?
少女は少しだけ考え込み、思い当たったことに目を見開いた。
◇ ◇ ◇
『やっぱり四条大橋にいた?分かりやすいねえ』
電話の相手が呆れたような声を出したので、天之橋はつられて苦笑した。
「先が見えないのに放り出すのは良くないと思うが……とりあえず、礼を言っておくよ」
『含みがあるなあ〜。アタシだってねえ、修学旅行くらいオンナの友情を温める気でいたんですヨ?
でもあのコ、めっちゃさみしそうな顔してたんで、まあ半分ずつってことで』
「だからといって、私が来なかったらどうするつもりだったんだね?」
わざと苦々しく言うと、表情が見えるような声音。
『それこそ、こっちのもんですよ。ずーっとそれをネタにして脅しますから』
「……全く……」
『まぁまぁ理事長。こんな時だからこそ、余ってるお金を遣わなきゃ。
みゆうは楽しい思い出を作れて嬉しいし、リジチョは会議前の息抜きができたし……』
「君も楽しい思い出が作れるし?」
一瞬流れる沈黙に、笑いが漏れた。
『……か、勘違いしないでよ!アタシは別に!』
「そうだね。姫条君が誘ってきたから、仕方なく、だったね」
『そうです!分かってるならつまんないこと言わないで、ちゃんと夕方までみゆうをエスコートしてくださいよ!』
言うだけ言ってブチッと切れた電話に、更に苦笑して。
「親友のためとはいえ、電話一本で学園の理事長をこんなところまで召喚するとは……最近の女子高生は変わったね」
天之橋は、わざとらしくため息をついてみせた。
FIN. |