もしかしたら今日、本当に何かがはじまったのかもしれないと思った。
「ほら」
転んでしまった少女にゆっくりと手を差し伸べる。
こぼれそうに見開かれた瞳は、自分の記憶を裏付けるかのように昔のままで。
陽の光に晒された明るい髪も、まるで昨日見たように目に焼きついている。
そう思って、葉月は少しだけ儚い表情を浮かべた。
教会の前で佇む姿を見たとき、まるであの時に戻ったような気がした。
幼い頃、ほんの少し一緒に過ごした少女。この教会で出逢い、祖父の作ったステンドグラスにまつわるお話を読んで聞かせ、会えなくなるのが嫌だと泣く彼女に宝物だった絵本を贈って別れたあの時から、すでに10年が経っている。
「どうした?……手、貸せよ」
「え?……あ、う、うん」
ぎこちなく手を差し出し、支えられて身を起こす。
よいしょと勢いをつけて立ち上がってからもしげしげと自分を眺める少女に、葉月は内心で苦笑した。
自分は一目で分かったけれども、彼女はそうではないだろう。
10年前に数時間遊んだだけの過去。それを覚えているとも思えないし、変わってしまった自分がその時の子供だと分かるはずもない。
ただ、こんな時にこんな所で話し掛けてきた人間に、物珍しさを感じただけに違いない。
「……早く行ったほうがいい。式が始まる」
沈黙が苦しくなって、葉月はそう言って目を逸らした。
少女は我に返ったように目を瞬かせ、スカートの汚れをぱたぱた落としながら頷く。
「あ、そうだった。それじゃあ、えっと……」
「葉月。……葉月、珪」
「うん。ありがとう、珪くん!」
「……?」
「またあとでねー」
満面の笑みを浮かべ、こちらを向いたまま手を振って駆け出した彼女に一瞬気をとられた彼は、次の瞬間『あ』と呟いた。
「え?きゃっ!?」
少女がそれに気づいた途端、本日二度目の衝撃。
しかし、どしんと何かにぶつかって倒れかけた体は、地面に落ちることなく静止した。
「……前を見ずに走っては危ないよ」
ふわりと漂った覚えのある香りと、至近で聞こえる笑いを含んだ囁き。
それを判別して理解するための一瞬が過ぎると、少女は慌てふためいて体勢を立て直した。
「あ、す、すみません!」
「大丈夫かね?」
「も、もちろんです!だ、……じゃなくて、理事長……でもなくて、あの、天之橋さん!」
色々なことに混乱している彼女に苦笑しながら、天之橋は彼女の腰に廻した手を離し、弾みで落ちたハンカチを拾い上げた。
「理事長で構わないよ。君が呼びやすいように呼ぶといい」
「は、はい。あの、申し訳ありません……ありがとうございました!」
「いや、怪我がなくて良かった。もうすぐ入学式が始まるからね」
「はい!」
「……おや?君は」
そこで初めて葉月に気づいた天之橋が、首を傾げて微笑む。
葉月はばつが悪そうに少しだけ眉根を寄せた。
「君も新入生だね。早く行かないと入学式が始まってしまうよ?」
「……俺は……」
さすがにぬけぬけと『ここで入学式』などと言うわけにはいかず、口ごもる。
その言葉を、少女の驚いた声が遮った。
「え、うそ!珪くんって同い年なの?私ずっと年上だと思ってたっ」
「……ずっと?」
「?知り合いかね?」
「あ、はい。昔、この辺に住んでた時に一緒に遊んだことがあって……」
「……!?」
天之橋に向かって、笑いながらそう言って。
呆気にとられている葉月に構わず、そういえば、と続ける。
「もしかして、あの時遊んだのってここだったっけ?すごい偶然だね〜」
「……おまえ……まさか、……覚えてるのか?」
葉月がそう、半信半疑で問うと、少女は逆に訝しげな表情をした。
「え?当たり前じゃない。珪くん、全然変わってないもん」
「………あんな、少しの間のことなのに?」
「だって絵本くれたでしょ?私、今でも大事に持ってるよ?」
「………………」
「もしかして違うかもって一瞬思ったけど、名前聞いてやっぱりって思ったの。どうかした?」
「………………」
黙り込んでしまった彼を不思議そうに見てから、少女はあっと声をあげた。
「いけない、入学式!」
「ああ、そうだ。二人とも急ぎなさい。体育館の位置は分かるね?」
「大丈夫です、ここまっすぐ行けばいいんですよね?じゃあ!」
慌ただしく挨拶をすると、少女は当然のように葉月の手を取って走り出した。
小さな手に引かれて体育館まで走る間、葉月は複雑な表情で押し黙ったままだった。
「あー、終わったー!」
放課後。
教室を出てひとつ息をつき、少女はうーんと伸びをした。
入学式とそれに続くホームルーム、本日の予定はこれで終わり。
後は帰るだけなのだけれども、折角だから校内を回ろうかと思って見渡すと、すぐ近くに校舎間の渡り廊下に通じる出口を見つけた。
以前教えられたことを思い出してそこをくぐり、中庭を抜ける。
「えっと……真向かい、って言ったら……この辺りかな?」
中庭側に並ぶ窓を見ながら見当をつけ、何の気なしに呟いた時。
からりと軽い音がして、少し高い位置にある窓が開かれた。
「おや。良いタイミングだね、お嬢さん」
「あ、旦那様……あっ!」
言ってしまってから、慌てて自分の口を塞ぐ。
どうやら他に人がいる時には働く自制が、二人きりのときには利かないらしい。
一ヶ月弱の間、慣れるために呼び続けた呼び名は、そう簡単には直らないのだろう。
天之橋は笑って彼女の頭を撫でた。
「二人だけのときはそれでも構わないよ。もし誰かの前で言ってしまっても、不都合があるわけではないから。
ただ、念のために…ね?」
「も、申し訳ありません……気をつけます」
神妙に言い、少女は思い出したようにぺこりと頭を下げた。
「そうだ。先ほどは、ありがとうございました」
「うん?……ああ。間に合って良かったね」
「はい、危なかったです。旦那様の」
そこであっ、と口を噤みかけて、彼の微笑みに後押しされるようにおずおずと続ける。
「……スピーチも、素敵でした」
「そうかね?そう言ってもらえると嬉しいよ」
「あの校則って本当なんですか?青春を謳歌することって……」
「勿論だよ。素晴らしい校則だろう?」
興味津々の瞳で尋ねる彼女に、天之橋はくすくすと笑いながら窓枠に肘をついた。
「我が校での生活は君にとって、貴重な経験になると思うよ。大いに楽しむといい。
そうだね、さしずめ君は、恋に捧げる青春……かな?」
「え?」
「一日目から初恋の男の子と再会とは、なかなかドラマチックだ」
「!そ、そんなんじゃ……」
途端に薄く頬を染めた彼女に、からかうような瞳を向けて。
窓下に群生している野草から可憐な花を摘み取ると、いつものように差し出す。
「今日から始まる君の三年間が、素晴らしいものになるよう祈っているよ。
私はいつでも君の傍にいるからね」
「……ありがとう、ございます……」
渡された花に、ほのかなぬくもりが残っているような気がした。
更に続く?
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