「真咲先輩……あの…もう大丈夫、です…」
泣いている間中ずっと優しく背中を叩かれていた事を、恥じるように。
彼の肩から顔を上げた彼女が呟く。
泣きすぎで、腫れぼったい赤い目。
それをごしごし擦る彼女の手を止めて、真咲が至近距離で彼女の顔を覗き込んだ。
「………ごめんな、優月。……言い訳…させてくれるか?」
「………っっ…」
彼女がぷるぷると首を振って目を逸らす。
膝から下りようと動くのを、抱いた腕に力を入れて阻止して。
背ける顔に強引に目を合わせた。
「……頼む、聞いてくれ。…このままじゃオレ」
「黙ってバイトやめちゃってごめんなさい…!あの…先輩の声聞いたら、私ダメなんです。……涙が、出てきちゃっ…て……」
「………優月」
「こんな時間に…お時間を取らせてしまって……っっ…お祝いありがとうございました」
「優月、頼むから」
「もう帰ります。寒いなか来てくれて嬉しかった……でも先輩の大切な人に悪いから」
「……大切なのは、おまえなんだ」
彼女の言葉を遮って。
驚いて固まる小さな体をもう一度強く、胸に抱く。
言ってしまえばもう触れられなくなるかも知れない怖さを、必死で耐えて。
やがて彼が口を開いた。
「……本当にごめん。おまえが傷ついてるなんて、オレ知らなくて……公園通りでオレが女といるの見たんだろ?」
胸の中の彼女がビクリと震える。
その反応に、ため息をつく。
やっぱり見られていたと思うのと、それで彼女が傷ついてくれるという事実に、違う意味のため息を同時に。
「あれは櫻井の友達で…オレの恋人でもなければ好きなヤツでもない。……ただ確かめたい事があって、一緒に昼飯食っただけなんだ」
「………………」
「………オレがおまえのこと好きだから触れられてドキドキすんのか、そうじゃねーのか。……他の女で確かめないと気が済まなくて」
「………私のこと…って…」
小さな声が腕の中から聞こえて少し緩めると、彼女が浮かんだ涙もそのままに真咲を見上げた。
「けど、必要なかった。触れられなくなって、逢えなくなって、声も聞けなくて……オレはずっと、おまえのことばっか考えてて」
吐き出すように苦しげに。
彼が彼女を見つめて呟く。
エンジンを切った冷え込む車の後部座席で、彼女を腕に抱いたまま。
「それで……今までだってずっと、おまえのことばっか考えてたのに気が付いた。…後輩だとか、妹みたいだとか、言い訳しながら…ずっと」
目を見開いた彼女の頬に流れた涙を指先で拭って。
彼が愛おしそうに髪を梳く。
さらさらと何度も繰り返し、繰り返し。
「……怖かったんだ。おまえは高校生で、三つも年下で、学校にゃ頼まなくてもいつも一緒にいてくれる男がゴマンといて。…それでも週二回のバイトで先輩ってだけのオレを選んでくれるなんて、思えなくてな」
「…………真咲…先輩…が?……私を?」
「………そうだよ。…いつからだったか、思い出せねーけど………多分おまえが弁当作ってくれてた辺りには、もう」
「………………」
「気づいた…っつーか、自分の気持ちに向かい合ったのは最近だ。…でもオレは勇気がなくて、おまえがせっかく来てくれたクリスマスも…しまいにゃ勝巳に引き渡しちまって。………あれからこっち、後悔してばっかだ」
自嘲するように車の天井を見上げて、少しの沈黙。
膝の彼女の小さな手を探し、冷えてしまったそれを包むように握り込んで。
やがて大きく息をついて、彼女の瞳を覗き込む。
「………今まで、オレ、おまえに嘘ついたことないよ。ごまかしちまったことは、あるけど。………髪がキレイだって思ってた。可愛いって思ってた。誰にも渡したくないって…ずっと思ってた。………優月が、好きだよ」
「……………本当…に…?」
「本当に。………だから…もしおまえがまだオレに愛想尽かしてなかったら、その………オレと」
見開かれていた彼女の瞳が、そこではじめて揺れた。
困惑するように視線はだんだん下がっていく。
その小さな変化に彼が息を飲んで。
やがて完全に目が伏せられ、真咲が凍り付いて言葉を止めた。
「…………その先は…少し、待ってもらっても…いいですか?」
「………………」
「ちょっと整理がつくまで……少しだけ…」
「………ん…分かった。………落ち着いたら、言ってくれな?いつでもいいから……オレ待ってるから」
「…はい、必ず。………もう帰ります。おやすみなさい」
後部座席のドアを大変な努力を要して、開けて。
彼女が降りようとして、少しだけ握った手に力が入る。
この手は離してもいいんだろうか?
ものすごく後悔したあの日の事を思って、ためらって、迷って。
それでも、必ずと言い切った彼女の言葉を胸の中で繰り返し、力を抜いた。
やっと暖まった小さな手の温もりが、自分の手からすり抜ける。
ぺこりとお辞儀を一つして。
彼女は現れたときと同じように闇に消えた。
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