ヴィクトールの予想した通り、それを告げられたキールは目を丸くして絶句した。
「………と、いうわけだ。
おまえが俺の補佐役として要職についていることを忘れたわけではないが、どうしてもと言ってきかんのだ。
だだをこねはじめたあいつは手に負えんからな」
苦笑して、ヴィクトールは目の前のコーヒーカップを手に取った。
「おまえが嫌なら無理強いはしないが、……考えてみてくれないか?
もちろんずっとという訳じゃない。この2カ月の間、おまえには俺の名代を務めてもらったことだし、それについての休暇ということでもいいんだ」
そうは言われても、キールには何とも応えられない。
彼は水晶に似た瞳を混乱させたまま、呆然と上官を見つめていた。
「………………私、が?」
驚きに口調がくだけていることも気付かない。
「しかし……ヴィクトール様、お言葉ですが、そのような役目は他の者の方が向いているのではありませんか」
「それはそうなんだが、がな……。
あいつは見知った人間以外には気を張って対応するからな、新しくメイドをつけたりしたらどうなるか」
それは確かにそうだろう。女王候補時代、自分と話せるようになるのに軽く3カ月はかかったのだ、身重の体で無理はできないのは分かる。
しかし、それで何故自分なのだ。しかも本人が望んでいるということを、ヴィクトールは何とも思わないのだろうか。
「……恐れながら閣下、その、様……いえ奥様はなぜ小官を?
小官とは多少話したことがあるだけで、ほとんど面識はないのですが」
その言葉に、ヴィクトールはふと目を上げて彼を見た。
「……俺もよくわからんのだが、“話しやすくて信頼できる”からだそうだ。
候補の時に励ましてくれたのが嬉しかったと」
「あ!あれは、ただ単に試験に不安を感じていらっしゃったので言っただけの、戯れ言のようなもので……そんなたいしたものではっ」
あわてて弁解するキールを手で止めて、ヴィクトールは笑顔を浮かべた。
「いや、いいんだ。おまえにとってはそうでも、は嬉しかったんだろう。
それに、信頼できるという点では俺も全くの同感だからな」
だから考えてみてくれ、と彼は言う。
キールはまだ困惑を隠せないまま、視線を辺りにさまよわせた。
「……閣下、閣下は、………よろしいのですか」
即位の儀のあれから話題にしたことのないそれを、彼は意を決して尋ねた。
やっぱり訊かれたか、といいたげに、ヴィクトールは肩をすくめる。
「おまえじゃなかったら、俺だっていい気はしないさ。
だががおまえを信頼する気持ちは良くわかるし、おまえ以上にあいつを任せて安心できる者はいない。それは確かだ」
それは、昨夜一晩考え続けた上での結論だった。
正直言って最初は、ヴィクトールの心には引っかかるものがあった。
に他意があるわけはない。キールのことも知らないはずだし、第一これを言い出したのは自分なのだから。
少女は素直に「信頼できるひと」として彼の名をあげたのだろう。……だが、自分がいない間に若い男、それも一度との仲を誤解したことのある人間を彼女とふたりっきりにするのは、どうも気が進まない。
だいたい、ここでいきなりキールの名前が出るのもおかしい。自分の前ではいつも一歩引いて控えめなキールが、もしかしたらとひそかに会って………。
そこまで考えて、ヴィクトールは自らの見苦しい心に気づいた。
思わず苦笑が出る。つまらんことをよくも考えつくものだ、と自嘲しながら、彼は傍らで仔猫のようにまるまって眠る少女を見やった。
そっと頬に触れる。少女はぴくんと一瞬息を止めてもぞもぞと手を動かし、彼の腕を探し当てると、安心したように笑ってまた眠りに落ちていった。
それを眺めるヴィクトールの瞳が、ゆるゆると微笑む。
妻や部下を特に疑っているのではなく、自分以外の人間が彼女に関わること自体が嫌なのだと。そしてそれが、ただの子供っぽい独占欲でしかないと。
そう悟った彼の心はもはや、揺らぐことはなかった。
「……俺は、できることならおまえに頼みたいと思うよ。だが、逆におまえの負担になるなら遠慮なく断ってくれ。
おまえだって、上官の妻の話し相手になるために軍務についているわけではないだろうし……」
うかがうように言葉をかけると、キールはぱっと顔を上げた。
「わ、私は、ヴィクトール様にお仕えするためにここにいるのです!」
思わず声を荒げてから、恐縮して身を縮める。
「……閣下のご命令であれば、軍務かどうかなどは問題ではありません。もとより、閣下がいなければおそらく私は軍務を続けていないでしょう。
私の生命は、あの時助けていただいたあなたのために存在しています。今は何のお役にも立てていませんが、そう思っているんです。本当です」
「ありがとう。おまえにそう言ってもらう価値が自分にあるのかわからんが、素直に礼を言っておく。
……では、来てくれるか?」
にこやかに返されて、キールはもう一度迷い、そして答えた。
「………ヴィクトール様が、そうおっしゃるのなら」
|