それは、とても気持ちのいい朝だった。
空は青々と澄み渡り、すがすがしい風がさあっとそよぐ。
森の中を歩いていた少女は、晴れた空を見上げて澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、そしてそれをため息として吐き出した。
周りの清涼さに似合わず足取りが重い。よく眠れなかったせいか、頭の芯に疲れが澱んでいる感じがする。
アンジェリークは視線を道の先に戻すと、再び歩き出した。
目的の部屋に着くと、アンジェリークは息を整え、身なりがおかしくないことを確認してからドアをノックした。
「失礼します。おはようございます、セイラン様!」
いつもと同じように笑いかける。が、中にいた教官の姿を見て、少女は驚いた顔をした。
「……あれ。どうなさったのですか?」
普段からけしてカッチリした格好をしている訳ではない彼だが、その朝彼がまとっていたのは薄手の長袖シャツとジーンズだった。
「あ……もしかして、起きられたばかりとか……」
少し恐縮して呟いた少女に、セイランは気怠そうな目を向けた。
「…………べつに。起きたばっかりじゃないよ。寝てないだけさ」
「えっ、具合でも悪いんですか!? 何か、飲み物でもお持ちしましょうか」
「いらない」
冷たく言って、セイランは背もたれに体をあずけた。
「君は、その詮索する癖を直した方がいいね。不愉快だよ」
「はい。でも本当にお体を大事にしてくださいね」
切りつける言葉の刃に少しもひるまず、アンジェリークは素直に謝った。
その態度が、彼と話す時にいちいち傷ついていたらキリがないことを言外に語っているようで、セイランは顔をしかめる。
いつもなら、そんな彼女の反応は上辺に流されない強い意志と理解を伴って青年を楽しませるのだが、今日に限っては彼の神経を逆撫でするものでしかなかった。
「……昨夜は……」
前に立つ少女を目を細めて見上げながら、セイランはぽつりと呟いた。
「きれいな月夜だったね。紺碧のスクリーンに水晶を投影したような、美しい明月が出ていた」
くっ、と言葉に詰まった少女は、すぐに月並みな返事を返した。
「そうだったんですか? そんなにキレイなら見ればよかったな」
「狼に送られながら見たんじゃなかったのかい?」
瞬間、アンジェリークの表情が一変した。
目を見開いて笑顔をひきつらせ、すぅっと血の気を失う彼女に、セイランはさらに言葉を叩きつけた。
「真夜中のデートなんかに軽率に連れ出されて、人気のない庭園で、か。彼もなかなか大胆だね。それとも君が望んだの?」
「違っ……!」
叫びかけて、アンジェリークはぐっと口をとざした。
スカートを握った手が、ふるふると震えている。
「……どう…して………まさか、……あの方が……?」
やっとそれだけ言うと、少女は屈辱に耐えるように瞼を閉じた。
昨日の今日、である。それ以外に考えられない。
セイランは唇の端を上げて皮肉に笑うと、声だけで判るほどの嘲りを込めて答えた。
「ご丁寧に、君を送った足で知らせに来てくれたよ。
君は僕のことを好きなようだけど抵抗らしい抵抗もしなかった、だから君は自分のものだ、とね。
あの人があんなことを言うとは思わなかったけど」
びくり、とアンジェリークの身体が弾んだ。セイランが、自分の腕を強く掴んでいる。
「僕の…名前を。呼んだんだって?」
その声に嘲弄の色が浮かんだままなのを感じて、アンジェリークはああ、とうめいた。
知られた。知られてしまった。よりにもよって、一番知られたくない人に。
色恋沙汰に巻き込まれることをなにより嫌う彼に、無意識に口にした真実を知られてしまった。
ひざから一気に力が抜ける。机に手を突いてかろうじて上体を支えながら、しかしアンジェリークは必死で精神を保ち、小声でごめんなさい、と呟いた。
彼女が泣き出すことを予想していたセイランは、その反応に眉をしかめ、腕を引いて今まで座っていた椅子にアンジェリークを突き飛ばした。
「君は……、いつでも気丈だね。どんな時でも決して自分を手放さない。
その凛とした顔が恥辱に歪み、愛らしい唇が快楽を求めて泣き叫ぶところを見てみたいものだよ。
そう……僕に抱いてほしくて、彼を代わりにしたんだろう?だったら望みを叶えてあげようか」
言うなり、乱暴に唇を重ねる。間近に迫った藍の瞳をおびえ混じりに見つめながら、それでもアンジェリークは抵抗することができなかった。
前日のように恐怖のためではなく、甘やかで心地よい痺れのために。
|