「ずいぶん遅くなってしまったな……」 
ステアリングを握りながら、すっかり暗くなった空に目をやる。 
その隣には、ジュニアシートに半ばくずおれるようにして眠っている少女の姿。 
零一はちらとそれを見て、くすりと微笑う。 
「まったく……こいつときたら……」 
頬のゆるみが止まらなくなった彼は、その時すでに、教師の彼ではなかった。 
 
少女を抱いた手で、マンションのチャイムを鳴らし、ドアを器用に開ける。 
パタパタとかけてくる、足音。 
 
「お帰りなさい……あら?」 
驚く女性に、無言で肩をすくめてみせる。 
「“小学生になったのだから、自らの足で登下校するのは当然だ”……じゃなかったの?」 
「仕方ない。今日は、俺も悪かった。こいつの遊びに付き合ってつい遅くなった」 
「まぁ」 
くすくす笑って、彼女は小さな体を抱き受けた。 
「……ふみゅ……?」 
そのはずみで目を覚ました少女が、彼と彼女を交代に見て。 
はっと気づいたように、彼女に言う。 
「 あのね、ママ! 
 せんせぇがね、ゆーちゃんの、おむこさんになってくれるって!!」 
「!こ、こらっ……」 
前後を省いた脈絡のない言葉に、思わず焦る。 
彼女はまたくすくす笑った。 
「へぇ。……それで、結衣は先生が好きなの?」 
「うんっ!!だいすき!」 
「そっか。でも、ごめんね。先生はママのだから」 
「ええっ!?」 
驚いて、結衣は母親に抗議する。 
「いやだよ!せんせぇはゆーちゃんのだもん!」 
「ね、結衣。本当に好きな人っていうのは、だいたい、ひとりなの。 
 先生のお嫁さんになるなら、まーくんのお嫁さんにはなれないのよ。いいの?」 
「……………」 
むっと黙り込んで、少女は頬をふくらませる。しばらく考えた後、彼女はしぶしぶ口を開いた。 
「………まーくんのおよめさんがいい」 
「そうよね。じゃ、結衣は着替えてきて。お風呂沸いてるから、パパと一緒に入りなさい」 
「はぁい!」 
とてとてと走っていく少女を見送って。 
彼女は、靴も脱がずに硬直している零一を振り返った。 
「そんなにショックを受けなくてもいいのに……」 
「な……なんだ!?この俺よりも、まーくんとやらがいいだと!? 
 結衣はどうしたんだ、ついこの間まで俺のことを世界で一番好きだと……!!!」 
「はいはい。女の子なんてそんなものよ、先生」 
「家では先生はよせと、何度も言って……!」 
怒りの矛先を向けかけた、その唇が。 
彼女の唇に、ふさがれる。 
「……零一さん。そんなに結衣が大事なの?私だけじゃ、不満?」 
「水結……」 
驚いて、その名を呼び。 
零一はフッと目を閉じた。 
「……そうだな。もう一度、君からキスしてくれたら……いいだろう」 
そうして、軽い気持ちで近づいてきた彼女の唇を。 
待ち伏せたように、激しく奪う。 
「んっ……!!」 
壁に押しつけられた体に、力が入らなくなるまで味わってから。 
零一は唇を離し、にやりと笑った。 
 
「俺と君の娘だからな。大事に決まっている」 
「もう!そういう意味じゃなくって……」 
「しっ。結衣が来る」 
耳を澄ませると、軽い足音。 
「この続きは、結衣を寝かしつけてからだ。 結衣、先に風呂場に行っているぞ!」 
「まって、パパー」 
すっかり家での呼び名に戻っている娘を待たず、零一は廊下を歩き出した。 
ずるずると座り込んだ彼女は、少女とまったく同じ顔で頬をふくらませ、叫んだ。 
 
「零一さんの浮気者ー!」 
 
ガタタン!と。 
浴室の方から大きな物音が聞こえ、少女の『だいじょうぶ?パパ』というセリフだけが、むなしく響いた。 
FIN.  |