|   こんなに恥ずかしい思いをするのは、まだ長くもない人生でもはじめてのこと。 
 
 
 
「………………」 
 
寝室の前で、少女は幾度となくため息をつきながら、もうかなりの時間逡巡していた。 
主人に朝食と新聞を運び、身支度を手伝う。そんないつも通りの朝を始めるのに、多大な勇気が必要に思えた。 
 
 昨夜のことが、今朝になってどうにもあやふやに思えてきたから。 
 
昨日の夜、彼は確かに少女のことを好きだと言った。確か、だと思う。そして、彼女を子供や使用人として見てはいない、一人の女性として想っていると、言ってくれた……はずだ。 
けれど、朝起きてみるとそれは都合が良すぎる夢だったような気がして、彼と顔を合わせるのが恥ずかしくなった。 
そして万が一本当だったら、なお恥ずかしい。そうそう普通の態度が取れるものではない。 
 
悩みながらも、既に主人の起床時間を5分オーバーしていることが、彼女の背中を押した。 
普段でも、下手すると早く起きて一人で身支度をしてしまっているような彼だから、もしかしたら今頃自分が来ないのを訝っているかもしれない。彼の予定を狂わせることは、仕事にプライドを持っている少女にとって何よりも嫌だった。 
 
意を決して、ドアをノックする。 
中から聞こえた応答の声が、いつもより小さい気がした。 
 
「失礼します。おはようございます、旦那様。朝食をお持ちしま……」 
 
声が震えないように努力しながら、一礼して顔を上げたところで言葉が止まる。 
 
「旦那様?」 
 
いつもは正面のソファか机にいる姿が、今日は見えない。 
きょろきょろと見廻すと、ベッドの方から何か言う声が聞こえた。 
慌ててトレイをテーブルに置き、駆け寄る。 
 
「旦那様!ご気分でも悪いのですか!?」 
 
自分が入ってきた時に彼がまだベッドにいるなど、今までに一度もなかった。体調が悪い時でさえ、彼はぐったりしながらガウンを着てソファにいて、彼女に医者を呼ぶよう指示したくらいだから。 
色々考えていたことなど吹っ飛んで、少女は瞳を閉じたままの彼の額に手を置いた。 
熱は特にないようだ。だが、どう見ても普通ではない。 
 
「待っていて下さい、すぐにお医者様をお呼びしますから!」 
 
一瞬で決断して、身を翻そうとした、そのとき。 
横になったままの彼が、また何か呟くのが聞こえて。 
額から離しかけた手が、強い力で引かれる。 
 
え?と思う間もなく天地が反転して。 
気が付けば、少女は広いベッドの上で、彼の腕に抱き込まれていた。 
 
「え?……えっ?」 
 
事態を把握できずに混乱している彼女の耳元で、眠そうな囁き声。 
 
「医者など要らないよ……今日は休日だ、もう少しだけ寝かせてくれてもいいだろう?」 
「は?」 
 
思わず、至近距離の彼を見返す。 
いつもと余りにイメージの違う台詞、そして声音に、瞳がこぼれそうに見開かれた。 
天之橋は少しだけ目を開き、それを見て可笑しそうに微笑んだ。 
 
「そんなに変かね?」 
「……………はい」 
 
ぽかんと口を開けたままの回答に、さらに笑って。 
ちゅ、と軽い音を立てて、額にキスをする。 
 
「君が起こしに来てくれると思ったら、起きるのがもったいなくなったんだ…… 
 それに、昨日の夜は色々とあったし……ね?」 
 
その途端、少女の頬が一気に染まった。 
俯いて彼から顔を隠し、じりじりと下がっていく。 
 
「……あ、あの、旦那様……離し……あの、今日のご予定が、まだ……あの……」 
 
意味の分からないことをぽそぽそと喋りながら離れようとする彼女を、天之橋はきゅっと抱きしめた。 
 
「駄目だよ。逃がさない」 
「に、逃が……って……」 
「今日の予定は、今から決めるんだよ。海を見に行こうか……それとも、君の好きな水族館かな」 
「え?……あの、午前中の薔薇園のお手入れと、午後の書類整理のご予定は……?」 
 
義務感で少しだけ素に戻った彼女に、ますます相好を崩す。 
 
「そんな予定はどうでも良いよ。今日は一日中、君と過ごすことに決めたから」 
「決めたって……そんな、旦那様」 
 
そんな風に遊びでご予定を変更するのは、と言いかけた彼女の唇に、キスが下りてくる。 
それで言葉を封じておいて、彼はくすくす笑いながら目を閉じた。 
 
「そうだね……一日中、ここでこうして君と過ごすのも良いかもしれない。 
 ゆっくりと微睡んで、起きたとき君が傍にいてくれたら……それだけで……」 
 
言いながら、口調が本当に寝入りそうな程ゆるゆると沈み込んでいく。 
少女はあわてて、まだ赤いままの顔を上げた。 
こんな状態のままで本当に一日いられたら、心臓が保たない。今でさえ、彼に聞こえそうなほどドキドキしているというのに。 
恥ずかしいのを我慢して、彼女は懸命に言葉を探した。 
 
「あ、あの……旦那様……その、朝食が冷めてしまいますから……とりあえずお食事を」 
 
咄嗟に出た台詞はそれなりに有効だったらしく、天之橋はふと彼女を見て微笑んだ。 
 
「要らない、と言いたいところだけれど、君が作ってくれた食事を粗末にはできないね」 
「じ、じゃあ、ご用意します!……あの……は、離していただけますか」 
「うん?」 
 
まだ明晰とは言えない頭で、言われた台詞をじっと考えて。 
 
 
「……そうだね……では、君がおはようのキスをしてくれたら、起きるよ」 
 
 
またくすくすと笑って、天之橋は真っ赤な顔で絶句する少女を抱き直した。 
更に続く? 
 |