やってしまった。
ついに、やってしまった。
「……っく……うぅ……」
腕の中には、ぐすぐすと泣き濡れる少女。
とんでもないことをしてしまったと自戒する気持ちと、この場所を離れなければと焦る気持ちが、同居している。
別に、このまま彼女を連れて、彼女の本来あるべき場所からずっと逃げ続けるつもりではない。
そんなことが出来ないのは分かっている。
ただ、少しの間、忘れていたいだけ。
血ではないのにそれと同じ意味を持つ、自分と少女を繋ぐ絆を。
彼女がもう、手の届かないところに言ってしまう前に少しだけ。
「もう、泣くなよ」
式場から離れ、ようやく歩調をゆるめた尽は、まだしゃくり上げている少女に声を掛けた。
応じて見上げられる瞳が、濡れて煌めく。
こんな時なのに思わず見とれると、返されるのは泣きすぎて掠れた声。
「……っつ、くし……なんで、こんなこと……」
そんな様子さえ、可愛らしくて。
怒ったような、責めるような視線にも、今更心を奪われてしまうのが分かる。
「さあ……なんでだろ?」
尽は、式場を出る時に問われた答えと同じ言葉を繰り返した。
韜晦ではない、本気の言葉。
16年前、この家にもらわれてきたときから、ずっと一緒に生きてきた最愛の姉。
そしてその年月の半分以上は、家族としてではなく一人の人間として愛してきた少女。
その彼女に、高校時代から付き合っていた男との結婚話が持ち上がったのは半年前のこと。
反対するつもりは、なかった。
そいつは、度重ねた嫌がらせにも何も言わず、自分を疎むこともなくずっと彼女の傍にいて。
誰よりも何よりも……彼女を大切にしていたから。
彼女が結婚してしまうという事実は、尽の心には重すぎたけれども。
それでも、彼女が倖せならいいと無理に気持ちを押し殺すことが、できていたはずだった。
なのに。
『私、結婚するんだからね』
この日のために用意された白いドレスに着替え終わった少女は、目を合わさずに讃辞を述べる弟にそう言った。
『……なんだよ。どういう意味だよ、?』
その言葉に、思わず顔を見る。
少女はむくれたような表情になった。
『それよ、それ』
『はぁ?』
『私はもう大人で、結婚してあのひとの奥さんになるんだから、いくら弟でも呼び捨てにしちゃダメ。
これからはお姉さんって呼びなさい。いいね、名前で呼んじゃ駄目よ?』
『……………』
彼女が高校を卒業したときから、自分の中で意識して変えていた呼び名。
一瞬、その理由を見透かされたような気がして、息が詰まった。
『………嫌だ』
『尽?』
『名前で呼んだって、ねえちゃんはねえちゃんだろ。だったらどうでもいいだろ』
自分は一生、彼女の弟。
そんなことは分かっている。分かっているし、覚悟もしていたのに。
『ダメよ、尽。おねえちゃんの言うこと聞きなさい』
自分との絆を殊更に確認されることに、いつしか理性が効かなくなって。
気づいたら彼女を抱き上げて、式場を後にしていた。
◇ ◇ ◇
「尽……」
不安そうな彼女に微笑んでみせるけれど、その笑顔は引き攣っているかもしれない。
翻るドレス。少し崩れても綺麗に整えられている化粧。シフォンジョーゼットのベールに、生花。
時間と手間を掛けて美しく彩られているそれらは、自分のためのものではないのに。
このままどこかに閉じこめて自分のものにしたいと、思わずにはいられなくなる。
そんな思いを封じ込めるように、尽は抱いたままの手で彼女の涙を拭った。
「泣くなって。……すぐに戻すから」
「………え」
彼女の動きが、止まる。
尽はわざと冗談ぽく笑った。
「姉の結婚式に、シスコンの弟がダダこねてワガママ言ってるってことで。ちょっとだけ付き合ってくれてもいいだろ」
「…………」
少女は、彼を見上げたまま動かない。
けれどその瞳は、不安そうに揺らめいていて。はっきりと拒絶されるのが怖くなった彼を饒舌にさせる。
「一時間したら、式場まで送ってやるから。謝罪も全部、俺が責任持ってやるからさ。な?」
「…………」
「大丈夫、そんなんでケチつきゃしねえって。アイツだって絶対、ずっと待ってるから。だから今だけは……」
「…………戻して」
ふと、俯いて。
少女は小さく呟いた。
顔を覗き込もうとするけれど、縮こまるように身を竦めていてできない。
その格好のまま、繰り返す。
「今すぐ。式場に戻って」
「………!」
あっさりと言い切られた言葉に、ショックを受けて。
けれどそれは、彼女にしてみれば当然の言い分。
尽はため息をついて足を止めた。
「……どうしても……か?」
「どうしてもよ!」
「…………そう、か」
容赦のないそれに、いっそ苦笑が浮かんだ。
彼が身を切る思いで、わかった、と言いかけたとき。
急に、彼女の声が大きく揺れた。
「今だけなんて……一時間だけなんて……
責任取れないんだったら、初めからしないでよぉ!」
叫びと共に上げられた瞳から、ぼろぼろと流れる涙。
泣きながら、それでも強い光を伴って、少女は尽を睨み付けた。
一瞬唖然として。
次にその意味を取り違えていたらどうしよう、と悩んで。
結局取り違えていたら恥をかけばいい、と決めた。
そっと。
抱き上げた手に力をこめて、自分の方へ引き寄せる。
「……」
耳元で囁くと、ぴくりと震えて。
胸のところで握りしめられていた手が、弾みをつけるようにするりと首に廻された。
ふいに。
大声で笑い出したい気分になる。
それを懸命に我慢して、クックッと忍び笑いをしながら、尽は彼女の体を抱き直した。
「わーるかった。うそうそ。ちゃんと責任取るから……一生、な?」
「シスコンなんかだったら許さないよ!」
「わかってる」
「尽がいちばん悪いんだから。みんなに一緒に謝ってくれないと、駄目なんだからね!」
「わかってるって」
「もう!なんで今になって、今更、こんなこと……尽の、バカっ!!」
腕の中で、いつまでも泣きながら怒る彼女に。
尽は弛んだ顔のまま、口づけを落とした。
「俺、バカでよかった」
ずっと枷だと思っていた、絆が。
運命だったと分かったから。
FIN. |