「せ、ん、せ〜」
甘い甘い猫なで声を出して、少女は後ろから彼の首に抱きついた。
自分でもちょっと大げさだなと思うくらい、甘えた声。
ソファに座っていた青年は視線だけ動かして彼女を見、予想通り眉をひそめた。
「………何を企んでいる?」
「やだ、せんせ。たくらむだなんて」
抱きついた手を少し強くし、彼の瞳を間近で見つめる。
青年は途端に頬を染め、目を逸らした。
彼のこんなところがたまらなく好きだ。もう付き合って随分になるのに、いまだに彼女と接することに慣れていない。
彼女が抱きついたりキスしたりすると、それこそ顔を真っ赤にして、怒っているかのように反発するのだ。
今もそうだった。
「は、離しなさい!」
腕を上げて、振り解こうとする彼に。
「え?離しちゃうんですか?……寂しいな」
少女は、落胆してみせる。
「どうしても……離さなきゃ、ダメ?」
潤んだ瞳が、上目遣いで見上げると。
青年はコホン、と咳をして、仏頂面を作った。
「その、……君がどうしてもと言うなら……このままでも、よろしい」
「ありがとう!せんせぇ」
もう一度、きゅーっと抱きしめて。
少女はそのまま、低めのソファを乗り越えて彼の隣に座った。
行儀が悪い、と言いたそうな彼を遮り、ぴったりと寄り添う。
「あのね、せんせぇ。私、お願いがあるの」
「……やはりか」
「エヘ。私、お出掛けしたいなー」
「どこへだ?」
少女がこんな態度でおねだりをするときは、いつも無理を言うときで。
彼は自然と警戒してしまう。
しかし、彼女の答えは予想を裏切るものだった。
「えとね。映画館!」
青年は驚いた顔をして少女を見た。
「……それは、構わないが……」
「ホント!?じゃ、明日の日曜日に行こ?」
ぱちんと手を叩いて、少女は嬉しそうに言う。
しかし、その瞳の中に、見慣れた彼でなければ気づかない表情がある。
彼は慌てて、言葉を継いだ。
「待て。一体、何を観るつもりだ?」
「何って……映画」
「それは分かっている。何という演目を観るつもりなのだ?」
問うと、少女は目を泳がせて天井を見上げた。
「えっと、ね。題名は“迷宮の十字路”って言って……」
「ほう。題名から言って、サスペンス……もしくはミステリーか?」
「うん、ミステリーかな」
「内容は?」
「えと……殺人事件が起こって、その謎を二人の若い探偵が解いて。そんで犯人を特定して、事件解決なんです」
嘘は言っていない。嘘は。
少女は心の中で呟きながら、まだ不審顔の彼に笑ってみせる。
「ミステリーだけど、クライマックスのアクションがすごくかっこよくて。
剣道の達人の探偵が、武道の師範代をばしーっ!とやっつけるんだよ!」
「どうやら、内容はまともそうだが……」
私の趣味に合うかは別にして、と言い置いて、青年は眼鏡のずれを直す。
「しかし、解せないな。君の物言いから言って、何か裏がありそうだが」
「もー!裏なんてないですって!」
さりげなく嘘をつきながら、少女は彼の腕をぶんぶんと振り回した。
「行きましょうよー!すごく面白いんだよ!?バイクで走るシーンのCGがすごくキレイだし、舞台は京都で、桜が舞うシーンが多くって。音もよくって惚れ惚れするんですよ!」
「………ちょっと待て」
腕を揺さぶられていた彼が、ふと、少女の言葉に反応した。
「何故、そんな細かいことまで知っている?」
あっ!と。少女は途端に黙り込む。
青年は厳しい目をして詰問する口調になった。
「答えなさい。……君は一度、その映画を観ているな?誰と観たのだ?」
「え、と………」
もごもごと口ごもる少女に、しかし、彼の厳しさは弛むことはない。
彼女は仕方なく、小さな声で答えた。
「あの……なつみんと……先月の公開日に」
「藤井か。ならば、まぁ……」
いいだろう、と言い掛けた彼に。
「その後、志穂ちゃんと行って。またなつみんと行って、タマちゃんも行きたいっていうから行って、またまたなつみんと……」
「………待て。一体、何回行ったのだ?」
「え………………………え、っと。きゅ、9回……かな……?」
引きつった笑顔でそう言うと、青年は一気に目を見開いた。
「な、なんだと! 9回!?何故、ひとつの演目をそんなに観る必要がある!」
言われるだろうと思っていたので、少女も負けてはいない。
「だって、いい映画なんですよ!主人公(←平次のこと?)がすごくかっこよくて、和葉ちゃんも可愛くて!
もーファンにとっては、待ってた!これを待ってたよ〜!!って作品なんですから!!!」
鼻息も荒く力説する少女に押され、青年は少し背を反らす。
「ま、まぁ……何かを好きになるのは悪いことではないが……」
「でっしょー!!??だからせんせぇにも見てもらって、好きになって欲しいんです!」
「あ、あぁ……」
なんとなく不条理なものを感じながら、それでも自分を納得させようとした彼は。
ふと、思いついた疑問を口にした。
「そういえば。藤井と三回、有沢・紺野と各一回。残りの四回は……?」
ぎく。
少女は思わず、肩を揺らした。
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