「もう知らないっ!ゆうりなんか知らないからね!」
「ゆうだって、ママなんかしらないよーだ」
突然聞こえてきた喧嘩腰の怒鳴りあいに、天之橋は本を取ろうとしていた手を止めた。
しばらく、ドアが開いたままの外に耳を澄ませて。
それでも続きは聞こえてこないから、苦笑して本を戻す。
彼が書斎を出ると、廊下をぱたぱたと歩き去っていく彼女の後姿が見えた。
声をかけようかとも思ったけれど、こういう場合はどちらかというと娘から話をした方がいい。
そう思い返して、彼女が出て行った部屋のドアをノックする。
「結梨?私だが、入っても良いかね?」
返事はない。
数度ノックを繰り返して、もう少し時間を置いた方がいいかと思い始めたとき、中から小さな呟きが聞こえた。
「……おとうさま、だけ?」
「そうだよ。少しだけ、私と話をしないかな」
「…………わかった」
彼女がそう答えるのを確認して、ドアを開ける。
中では、お気に入りの大きなぬいぐるみに顔を埋めるようにして、少女がベッドに突っ伏していた。
「やあ、お姫様。ご機嫌いかがかな?」
「……………。」
反応のない彼女の傍に腰掛ける。
髪を撫でると、少女はぴくりと体を揺らしたが、それでも何も言わなかった。
静かに流れる沈黙。
母親に似た明るい髪を飽くことなく撫で続けていると、やがて堪えきれなくなったのだろう、小さな声が聞こえた。
「………だって、ママがわるいんだもん」
「うん?」
「ゆう、まちがってない」
娘の可愛らしい意地にくすりと笑い、天之橋はようやく尋ねる。
「どうしたんだね?」
「……ママが、ねなさいって……」
ぶすっとした顔を上げ、少女はぬいぐるみを抱いたまま身を起こした。
「いっぱいねないとおおきくなれないのよ、っていうから、おおきくなったらおとうさまにだっこしてもらえないからいや、っていったの。
そしたら、おおきくなってもしてくれるよっていうのね?でも、ママはだっこしてもらってないでしょ?
じゃあゆうもだっこしてもらえなくなるでしょう。だから、うそつきっていったら………ママがおこった」
「……………。」
「ゆう、まちがってないもん。わるくないもん」
ますますふてくされて呟く娘に、天之橋は一瞬、どういう表情を浮かべていいのか分からない顔をした。
そんなことで、とは間違っても言ってはいけない。おそらく本人にとっては至極深刻なことなのだろう。
なにより年の割に理屈っぽいこの娘には、眠くないのに眠らなければならないことへの納得のいく説明がなかったのが腹立たしいに違いない。
滑稽なのではなく微笑ましくて浮かぶ笑いを噛み殺し、彼女の顔を覗き込む。
「……結梨。お母様は嘘をついた訳ではないよ」
「えっ」
「大きくなったらだっこしてもらえないなんて、どうしてそう思ったんだい?」
「だって……おおきくなってもだっこしてもらうなんて、あかちゃんみたいでかっこわるいんでしょ?」
どこかで耳にしたのか、テレビでも見たのか。
いかにも物知り顔で言う彼女を、天之橋はぬいぐるみごと抱き上げて膝に乗せた。
「そうなのかい?私は、そうは思わないけれど」
「……………」
「結梨は思うのかな?私に抱き上げられるのは、嫌かね?」
「い、いやじゃないよ!ゆう、おとうさまがだいすきだもん!」
慌ててぬいぐるみを放り出し、少女は彼の服をぎゅっと掴んだ。
それに、とろけそうな微笑みを返して。
「よかった。私も結梨が大好きだよ。もし君が嫌でないなら、君がいくつになってもこうしていたいね」
「……ほんとに?」
「本当に」
心配そうに見上げる少女に、天之橋ははっきりと頷いてみせた。
もう十年も経てば、彼女は父親に抱き上げられることが嬉しいなどと思わなくなるだろう。
年頃になれば嫌われてしまう、とは思いたくないけれど。
それでも、こんなに無邪気に愛情を表してくれるのはおそらく、そう長いことではない。
自分の代わりに娘の心を奪うのはどんな人間だろう、と少しだけ考えかけて、天之橋はすぐにそれをやめた。
なんだか本気で、腹が立ってしまいそうだったから。
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