「むー……」
テキストとにらめっこをしている瞳を外さずに、少女は小さく呻いた。
その声には、困窮と諦観が色濃く出てしまっていて。
けれどテキストを閉じることなく、進まない視線を無理に滑らせる。
「……はあ」
しばらくそうした後、ようやくページを見終わって、軽いため息をつきながら疲れた目を擦ったとき。
「珍しいね。君がそんなに手こずっているなんて」
「え?」
ふと聞こえた声に隣を見ると、席一つ離れた位置に、細められた瞳。
少女は慌てて、机についていた両手を膝に落とした。
「あ…!…ま、のはしさん。どうなさったんですか?」
思わず叫びかけて、ここが図書室だったことを思い出し、声を落とす。
彼はそれに答えず、彼女の隣に移動してテキストを覗き込んだ。
「ああ、英語だね。嫌いなのかな?」
「あ、え、いえ!嫌いってわけではないんですけど……その……」
いかにも辿々しいノートを見られないよう隠しながら、少女はぽそぽそと呟いた。
「…………ちょっとだけ、苦手で」
「ふむ。そうか」
司書教諭がちらりとこちらを気にするのを感じて、少しだけ考えて。
天之橋は置いてあったシャープペンを取り上げ、ノートの端に走らせた。
『よければ、放課後にテキストを持っておいで。
もしかしたら教えられることがあるかもしれないよ』
途端に期待に満ちた目で見上げられるのに、苦笑して。
天之橋は彼女の頭をひとつ撫でると、図書室を出て行った。
◇ ◇ ◇
「……で。一体、どういうところが苦手なんだい?」
いつもはティーセットが主役となっているテーブルに広げられたテキストを、天之橋はぱらぱらとめくりながら尋ねた。
少女はお茶を口にしながら、小さくため息をつく。
「なんていうか……英語って、暗記が大事じゃないですか」
「まあ、そうかな」
「数学とかなら、公式を覚えれば応用はききますけど。英語って文法が分かっても単語を覚えてないことには何にもならないから……そういうところが、少し」
勉強の甲斐がないです、と答える彼女があまりに辟易した様子だったので、天之橋は思わずくすりと笑った。
「もしかして、他の暗記教科も苦手なのかい?」
「え?……えぇ、得意では……ないです」
「君の成績からして、そんなに苦手な科目があるとは思わなかったが」
からかうように言うと、少女はむっとして唇をとがらせた。
「これでも努力してるつもりなんですっ。珪くんみたいに一度見たら忘れない、なんて特技はないですから!」
「確かに……彼のあれは、一種の才能だね」
「だいたい、暗記なんて無理にする必要ないと思いません!?
国語は母国語だから別にしても、歴史は年表を見ればいいし英語は辞書を見ればいいんですよ。
なんで無理して覚えなきゃいけないのか、わかんないです!」
憮然と呟く言葉に、苦笑して。
天之橋はテーブルのティーカップを手に取り、可笑しそうに首を傾げた。
「そうだね。氷室君にでも聞いてみたらどうだい?」
「いえ、やめときます。『学生の内はなんでも勉強しておくに越したことはない』って結論が出ている問題を、氷室先生が議論するとは思えませんから」
ぷいと顔を背けて言われる台詞に、天之橋は意表をつかれたように目を瞬かせ、次の瞬間破顔した。
「それは、まあ、正しいかもしれないね」
「でしょう?」
少女も表情を戻し、くすくすと笑う。
一頻り笑いあった後、彼女はふと、窺うような目で彼を見上げた。
「天之橋さんは……こういうの、言い訳だと思います?」
「うん?」
その瞳に、少しだけ不安そうな色を見取って。
天之橋はゆっくりと、柔らかな微笑みを向ける。
「そんなことはないよ。きちんと自分の意見を持つことは良いことだ。ただ……」
「ただ?」
「私の個人的な経験から言わせてもらえば、暗記にもそれなりの意味はあると思うよ」
それだけ言って、天之橋はカップを置き、テキストに視線を落とした。
「そう。、例えば君に、日本語が話せない英語圏の友達が出来たとする」
「え?」
「その友達とは、きれいな景色を見て微笑みあうことは出来る。
けれど、他にもっと素晴らしい景色があると伝えたかったら、その場で辞書をめくらなければならないだろう?」
「……あ」
「もしそれが好きな人だったら、I LOVE YOUくらいは言えても、他の気持ちは何も伝えられない。
好きになった人にそれだけしか言えないのは、もどかしいだろうね」
もっとも、言葉が分かっても言えないことはたくさんあるけれどと心の中で呟きながら、彼女の頬をさらりと撫でる。
「私も海外に行った時に実感したのだが、言いたいことが伝えられないのはなかなかにつらいものだよ。
もし君が、日本語は気持ちを伝えるのに必要だと思うのであれば、英語も同じだと思ってほしいな」
目から鱗が落ちたような表情をしている彼女に、天之橋は笑ってテキストを差し出した。
「テストのためではなくて、未来の可能性のために勉強していると思えば、少し気が紛れないかい?」
「………そうですね」
その表現に頷いて、テキストを受け取って。
少女はそのまま、視線を手元に落としたままで、少しだけ微笑んだ。
「でも……やっぱり私、どちらかといえば英語より日本語をじょうずに伝えられるようになりたいです」
「そうだね。その気持ちも大切だと思うよ。さ、始めようか?」
何気ない返答を聞きながら、鞄から筆記用具を出す動作に紛らわせるように、小さな声で。
「未来の可能性よりも、いま好きな人に……想いを伝えたいから」
「え?」
聞き取れなかった言葉に、天之橋が不思議そうに聞き返したけれど。
少女は少し頬を染めて、なんでもありませんとばかりに首を振った。
FIN.
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