カカッ、と甲高いノックの音。
常ではないその音に訝しげにしながら、天之橋はそれに応えた。
「失礼しますっ」
ノックの音と同じくらい勢い込んで入ってくる人物を、少し驚いて見る。
「……藤井くん?どうしたんだね」
執務机で、書き物をしているまま止まっている彼を無視して。
ソファに座っている女子生徒に、横目で視線を送る。
「ゴメン。ちょっと悪いんだけどさ、席外してくれないかな?」
「……あ……、ぁ、は、はい………」
奈津実の妙な迫力に怯えながら、自分に向かって一礼して慌てて部屋を出る彼女を見送って。
天之橋は、穏やかに言った。
「藤井くん。あまり脅かしてはいけないよ」
その言葉に、爆発寸前の神経が逆撫でられる。
奈津実は前置きをせず、いきなり核心を突いた。
「あの子が。の代わりに、なれるんですか?」
ぴく、と。書類を綴っていたペンが揺れる。
「……意味がよく、分からないが」
「そうですか」
嘲るように言って、奈津実は机の上のティーカップをカチンと弾いた。
「アタシは、みたいに自分の心を隠せないし、そんなことをしてやる義理もないからはっきり言いますけど。
ここんとこ、どういうつもりなのかはっきりと聞いておきたいと思って」
「隠す?」
訝しげな視線が、ますます深くなる。それについて解説してやる親切心など、奈津実にはない。
「どこまで分かってるのか知りませんけど。それでも、状況が変わったのは分かるでしょ?」
「…………」
「がいなくても、構わないんですか?」
一瞬だけ、視線が揺らいだようにも見えたけれど。
少女のように奈津実の追求に屈してしまうほど、天之橋は若輩ではなかった。
「……君には関係のないことだよ。藤井くん」
自分でも迷っている所を突かれ、怯む。
そんな奈津実に微笑んで、天之橋は教育者の顔で諭した。
「友達を思いやる気持ちは分かるけれど、上辺だけで判断するのはいけない。
何が本当に良いことなのかは、深謀遠慮の果てにあるものだ。一緒によく考えてあげなさい」
「………っ」
言っていることは正しいのかも知れないけれど、それは公の立場での彼であって。
少女とお茶を飲みながら笑い合っていたり、寝入った彼女を抱き上げて送り届けたり、奈津実に色々なことを聞いてきたりした彼は、違っていたはずだ。
彼は、いつでも。
教育者などという仮面無しに、少女を見ていたはずだった。
それだけは絶対に確信を持てる奈津実は、ともすれば負けてしまいそうな意志を奮い立たせて、執務机に歩み寄った。
「つまり。本心を明かす気はなくって、逃げると。そういうことなんですね」
揶揄される言葉に、眉を顰める彼に。
「よっっくわかりました。でも、これだけは言っときます。
あのコが他の奴と一緒に帰ってるのは、今は断る理由がないからであって、自分から誘ったことは一度もないです。
けど、理事長は。誘われたことがないなんて言わせませんよ」
そのこと自体で、何かを悟るべきだと。
そう語る、至近距離の瞳に。
「……それはきっと、たいした意味はないのでは……」
ないかな、と最後まで言わさず。
薄い紙を引き裂くような音をさせて、奈津実の掌が左右に動いた。
「この、バカっ!!」
学園長に対してあるまじき行動と発言をし、奈津実はとうとう激発した。
「アンタみたいな臆病な人間に、はもったいないと思う!
遠慮も気遣いもいいけど、それであのコを傷つけて泣かせてることに気づかないような馬鹿に、任せられない!」
「!?」
その捨て台詞には、今の天之橋でさえ聞き捨てられない言葉が含まれていて。
「ま、待ちたまえ!藤井く……!」
走り去ろうとした奈津実を引き留めるために、慌てて立ち上がって。
瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
「…………っっ……」
「理事長っ!?」
奈津実の叫びを、遠くに聞きながら。
世界が暗転する。
暗い闇の中で。
少女の、泣いている姿が見えた。
何故、泣いているのか分からないけれど。
そうさせないために色々なことを押し殺したのではなかったろうか?
他の生徒と一緒の所を見たときに、彼女が傷ついた顔をすれば、そうしないようにできたし。
もし、放課後を自分と過ごしてほしいと言われれば、喜んでそうしただろう。
それらは、全て自分の望みでもあったから。
けれど、それは。
自分から言い出すには余りにも、敷居が高すぎた。
だから。
いつも、彼女から切り出されるのを、待ってしまっていた。
本当は気づいている。
彼女の笑顔に甘えて、自分からは何もしなかった奈津実が言うように、ずっと逃げていた卑怯さに。
|