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  MN'sRM > GS別館 > GS1夢 > 天之橋・約束シリーズ1 >

 手をつないで帰ろ 

「……………

困惑し弱り果てた声音で、天之橋は少女の名を呼んだ。
少女は『グレートバリアリーフ』と書かれた水槽の前で、ガラスにへばりつくようにして中を覗き込んでいる。
水槽の中には、色とりどりの熱帯魚たち。

「ご、めんなさい。もう、ちょっとだけ、見せてくださいねっ」

それが本心ならば、天之橋は何時間でも水を差したりせずに魚を眺める少女を眺めていられるのだが。
だが、しかし。
それが取り繕いであることが分かってしまっている身にとっては、声を掛けずにはいられなかった。

子供のようにガラスにへばりついているのは、不機嫌にしている表情を見られたくないから。
それでも彼を責めないのは、苛立ちの原因が彼の優しさだと分かっているから。

天之橋は途方に暮れて、天井を仰いだ。


今日は休日。二人は少女の希望で、水族館に来ていた。
水族館は彼女のお気に入りの場所で、何回も来ているはずなのにうきうきと館内を見て回るはしゃいだ姿は、天之橋にとってもお気に入りの光景だった。

大水槽では、ジンベエザメやマンボウを飽くことなく眺めて。
チリ水槽では、膨大な数のイワシの群れに歓声を上げて。
通常のルートで館内を一周した後、出口と入口を結ぶエントランスで、申し訳なさそうな顔でもう一周してもいいかと尋ねるのも、いつものことだった。
天之橋はもちろん了承し、その前に化粧室へ行く彼女を見送ってふと見渡したエントランス内に、見覚えのある顔を見つけた。

「………?」
頭の中で人名録をめくった彼は、ごく最近、理事長室での記憶を蘇らせた。
あれは確か……先日編入した、一年生の生徒ではなかったかな?
それだけならは、声を掛けたりはしなかったろう。
だが、彼女は明らかに落ち込んだ様子で独り、ベンチに座り込んでいて。
この角度からはよく見えないが、涙を拭っているような仕草をしている。
そのせいで、天之橋は思わず職務意識を優先してしまった。

天之橋が近づくと、女子生徒はぱっと顔を上げて彼を見、落胆したように顔を曇らせた。
「………あ」
一瞬置いて、彼の素性に気づいた表情をする。
「り、理事長?」
言いながら瞳を拭い、身なりを整える所作には言及せず、天之橋はゆっくりと話し掛けた。
「おや、人違いではなかったようだね。どうかしたのかな?」
尋ねると、女子生徒はしばらく俯いて逡巡した後、小さな声で話し始めた。

姉と一緒に、この水族館に遊びに来たこと。
姉は急用で先に帰ってしまい、自分が帰るときになって初めて、財布を忘れたことに気づいたこと。
水族館の人に頼んで姉に電話したが繋がらず、地理にも疎く、まだこちらに友達もいないので頼れる人がいないこと。

ぽそぽそと話す感じから、内気な少女であることが知れた。
本来なら、水族館に電話を貸してもらうことすらできない性格のようだから、電車代を借りるなど考えないのだろう。
そんなことを考えながら、天之橋は穏やかな微笑みを向けた。
彼女を安心させるために。
「そうか。では、今日は私が立て替えておくよ」
「え!?そ、そんな、理事長に……駄目ですっ」
はばたき学園の生徒らしい礼儀正しい返答に、目を細める。
「いや、構わないよ。帰りが遅くなったら、親御さんが心配されるだろう。
 本当は送っていければいいのだけれど、今日は私用で」
そこまで言って、初めて。
彼は状況を思い出し、慌てて振り返った。

しまった……

化粧室とは正反対の方向に、彼の少女が背を向けて座っているのが見えた。
「……理事長?」
「あ、ああ」
不思議そうな女子生徒に、生返事を返して。
まだ遠慮する彼女に、乗り換えが分からなければタクシーで帰りなさいと告げて。
明日、必ず返しに伺いますと、感謝の言葉を掛けられても上の空の。

天之橋が傍に戻るまで、少女はずっと俯いたままだった。

 

◇     ◇     ◇

 

もちろん、天之橋は言い訳にならないように、少女に事情を説明した。
しかし彼女は、無理をしているのが分かる顔でにこっと笑い、もう一回廻りましょうとだけ言って、早々に館内へ入ってしまった。
いっそ責められれば、話もできるのだが。
彼女はとりつく島もなく無言で、一生懸命に水槽に見入っているふりをする。



天之橋がもう一度呼ぶと、薄くガラス面の照り返しに見える彼女の表情が、変わったように見えた。
むくれながらもこちらを気にしている、どうやって感情を処理したらいいのか迷っている、そんな様子を見透かして。
天之橋はため息と苦笑を同時に浮かべ、平べったくなっている彼女の体をゆっくり引いた。

「……………。」

少女は抗わないが、振り向きもしない。
多分、振り向かせようとすれば抵抗するのだろうな、と思いながら、天之橋は水槽の魚たちに目をやった。
「きれいだね」
言いながら肩に手を置くと、ちいさく身じろぎをする。
その挙動が、彼を赦すタイミングを計っているようで、微笑ましい。
天之橋は少女の髪を撫でながら囁いた。

。怒ってもいいんだよ」
少女はふるふると首を振る。
「理由がどうあれ、君をエスコートしているときに他の女の子に声を掛けたのは、ルール違反だからね」
「………できません」
初めて、少女が口を開いた。
「だって、天之橋さんは悪くないって、分かってますから。……ただ、私が勝手に……」
彼女の可愛らしい理屈に、笑みが漏れる。
「そうだね。もし君に責められたとしても、同じような状況になれば、私はまた同じことをすると思うよ」
意外な台詞に、少女がふと振り向いた。
「それは私の、学園長としての義務だからね。でもそれを非難するのは、君の権利だから」
だから思いっきり責めてもいいんだよ、と。
自分を見上げる瞳を眩しそうに見て、笑って見せる。
少女はつられてくすりと微笑んだ。

「……じゃあ。私がもし、なんで他の子を見るんですか!って怒ったら、どうするんですか?」
「そうだね……」
少しだけ、考えて。
すっかり機嫌の直った彼女に、悪戯っぽくウインクする。
「君ばかり見ていたら、どんな素敵な女の子が私に付き合ってくれているのか分からないから、と。言い訳をするかな?」
そう答えると、少女は一瞬驚いて、次いで弾けるように笑い出した。
「そ、そんなの、天之橋さんに似合わないと思います〜っ」
隣を通り過ぎる客が妙な視線を投げてくるのも構わないで、お腹を抱える。
天之橋は苦笑して、すっと手を差し出した。
「さ、お嬢さん。お詫びに今日はなんでもお願いを聞くから、遠慮無く言ってほしいな」
少女は目にうっすらと涙を浮かべながら、頷いてそこに手を置いた。

「じゃあ、もう一回、最初から廻っていいですか?」
さっきはほんとに何にも見えてなかったんです、と照れくさそうに言う彼女に。
天之橋はもう一度微笑んで、その手にキスを落とした。

FIN.

あとがき