ぱたぱたと屋敷を駆けてきた少女は、いつのまにかパーティのあった中庭に出た。
あの時と違い、おぼろげな月の光しかない中を手探りで進んで。
ライトが消えたままの噴水に辿り着き、その後ろに隠れるように座り込む。
「………ぅ………」
小さく嗚咽して、少女は自分の口を両手で押さえた。
泣いてはいけない。泣いたら目が腫れて、きっと彼にバレてしまう。
そうしたらきっと、彼はそれを気にするから。
「っっ………」
思い切り力を込めて、涙を止めて。
目を瞬かせながら月を見上げて。
ほぼ満月に近い霞がかったそれと、その代わりよく見える星々を眺めた。
見知らぬ異国の地。今までは勉強の一環でしかなかった言葉。食べ物も習慣も、星座さえ日本とは違っていて。
けれど、それだから哀しかったり寂しかったりするのではない。
分かっている。
胸が苦しいのはただ、彼に自分より親しい人がいることを確かめてしまうから。
家族のようなものだと思っても、日本で自分といる時より楽しそうな彼の笑顔に、心が揺れてしまうから。
彼の気持ちを疑う訳ではない。好意も思いやりも、十分すぎるくらいに感じる。
それを素直に喜べない自分が、一番悔しい。
「……考えちゃ……ダメだってば」
上を向いたまま、ほろりと涙をこぼして、少女は小さく呟いた。
勝手に出かけてしまった自分を怒っているのかもしれないと思って、謝ろうと思って訪ねた部屋で見た、彼とマリィの姿が目に浮かぶ。
パジャマで寝転んだ彼女に優しい目を向けて、英語で何か囁きながら顔を寄せる彼。
絶対に入ることのできない、二人の世界。
自分にだって家族はいるけれども、たとえ弟と仲良く話していたとしても、彼ならそんなことは考えないだろう。
幼稚な嫉妬。いつまでも子供っぽい自分。
それが、心が痛い理由なのだと。
分かっている。
「?」
突然声がして、中庭に下りる階段がかつんと音を立てた。
ビクリと震え、身を縮めて隠れようとして、思い直す。
これ以上、彼に心配を掛ける訳にはいかない。明日はもう帰国の日なのだから、何もなかった顔をしてやりすごすこともできるはず。
噴水の水に浸した手で顔を冷やし、服の袖で丁寧に拭くと、少女はゆっくりと立ち上がった。
「天之橋さん?」
応えると、きょろきょろと辺りを見回していた彼が、慌ててこちらへ走ってきた。
それに、笑って。
「天之橋さんも、お散歩ですか?」
「…………」
「すごいですよね、星がこんなに見えるなんて。やっぱり空気がキレイだからかな?」
そう言って、もう一度空を見上げた彼女にしばらく沈黙してから、天之橋はその肩に手を置いた。
動揺したように震える体には、気付かないふりで。
「……そうだね……月の明かりがはっきりしていないせいではないかな。くっきりと影が出来るくらい明るければ、こんなには見えないだろうね」
「そんなに明るくなるんですか?」
「ああ、街灯など無くても、月の光だけで表情まで分かるくらいに明るくなるよ」
「……そうですか」
そんなの見たことないな、と小さく呟いた彼女を。
後ろからゆっくりと抱きしめる。
「………!」
「見たければ、見せてあげるよ」
「天之橋さん……」
「君が見たいなら、いつでも見せてあげる。どんなことをしてでも」
また、小さく身じろぎをした彼女に心を痛めながら、天之橋は抱いた手に力を込めた。
「私が間違っていたよ。イギリスは私にとって大切な場所だから、君によく知って欲しいと思って……
けれど、私が何を見せたいかより、君に何を見たいか聞くべきだった」
「……そんな……別に、わたしは」
「何をして、どう楽しむかよりも……君が本当に楽しいかどうか、確かめるべきだった。すまない」
「………………」
背中に感じる暖かさに、少しだけ涙が溢れた。
この暗さでは見えないそれが、廻された手に落ちて気付かれないように、自分の手を重ねる。
「……それから……それから、マリィのことだが」
そう、言いにくそうに切り出された瞬間、少女は慌てて彼を振り向いた。
至近距離でもよく見えない顔が、苦しそうに歪んでいることが分かるから。
彼が続きを話し出す前に、スーツの胸を掴んで首を振る。
「あ、あの、違うんです!わたし、わたし別に、そういうふうに思ってるんじゃなくてっ」
「?」
「違うんです、天之橋さんを疑ったとか、そういうんじゃなくてっ……ただ……」
「……ただ?」
「ただ……ただ、わたしが子供で……幼稚だから。
彼女がどう、とかじゃなくて、天之橋さんの傍にいるひとを……ただ……妬んでただけなんで…す……」
嗚咽が漏れないように、ぎゅっと彼の服を握りしめて。
かろうじてごめんなさい、と呟いた声を耳にして、天之橋は複雑な表情を浮かべた。
腕の中の彼女を抱きしめ直して、耳元で囁く。
「……そう、言われてしまうと……耳が痛いね」
「…………?」
「君は、例えば花椿に嫉妬したりはしないだろう?」
「???」
意味が分からなさそうな少女の髪を、ゆっくりと撫でて。
自分でも情けないと分かっている事実を、告白する。
「私は、君がお母さんと一緒にいる時だって嫉妬しているよ」
「!?」
「お母さんとじゃれている時の君は、とてもやわらかい安らいだ顔をしていて。
生まれた時から君の傍にいて、君の支えになれる彼女に、嫉妬する」
呆気にとられているらしいその髪を撫で続けながら。
「それから、藤井くん。私には話してくれないことを話しているのだろうな、と思うととても妬ましいね」
「……あ、あの……」
「勿論、私の知らない大学の友達にも。先生にも。挨拶をするだけの近所の人にだって、いつも嫉妬しているんだよ?」
「…………………」
「でもそれは、誰かと一緒にいる君を見たくない、ということではなくて。
それだけ、君を好きだということなんだよ」
そう告げて、彼女の顎を持ち上げ口づけを落とす。
そこまで近づいてやっと、少女が目を見開いて驚いているのが分かって、天之橋は苦笑してみせた。
「だから、幼稚だなどと言わないで欲しいな。そんなことを言われたら、立ち直れなくなる」
「そ、そんなことは!あのっ、………あ!」
慌てて抗弁しかけた時、まるで灯りがともったかのように一気に闇が払われて。
すぐ目の前に、いつもの彼が笑っているのが見えた。
掴んでいる彼の服に、くっきりと自分の手のシルエット。足元にも二人分の影。
見上げると、薄雲が晴れた月は眩しいくらいの光を放っていた。
「わ……す、ごい……」
「これは……見事に晴れたね」
目を輝かせて空を見上げる少女を、おかしそうに見て。
天之橋は、彼女にもう一度キスを落としながら囁いた。
「見せてあげるって言っただろう?」
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