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 Take that! 

コツン、と微かな音がした。


「………?」

書類から顔を上げて見回すけれど、その音に繋がるようなものはなくて。
念のためドアを開けてみても、そこには静寂が返るだけ。
気のせいか、と呟きながら机に戻ると、天之橋はもう一度書類に目を落とした。
その時。
がつ、という鈍い音が響いて、執務机の背後の窓ガラスに亀裂が走った。

「!?」

慌ててカーテンを開けて絶句。

「あらら。やりすぎた?」

そこには、台詞とは裏腹に可笑しそうな口調の少女が、あられもない姿で笑っていた。

 

◇     ◇     ◇

 

くん!?」

ようやく動けることを思い出したように、彼は彼女の名を呼んで。
それから、慌てふためいて窓から手を伸ばした。

「そ、そんなところで何を……!危ない、早く手を!」

校舎に沿うようにして植えられている並木は小さなものではないけれども、三階の高さになるとそう頑丈な枝も少ない。
少女が動くたびに大きく揺れる枝葉にはらはらしながら、天之橋は自分も落ちそうなほど身を乗り出して彼女の手を掴んだ。
血相を変えた彼とは逆に、彼女は落ち着き払った態度でその手を支えにすると、一気に枝を蹴って飛び移る。

「危な…!」
よ、っと」

桟についた片手だけでくるりと廻って勢いを消し、少女は理事長室の床に音も立てずに降り立った。
それを何度も確認して、ゆっくりと手を離す。
にこ、となんでもないように微笑まれて、天之橋は一気に脱力して革張りの椅子に背中を預けた。

「ありがとね」
「……君は一体、どういう……それにその格好は……」
「ああ、これ?」

立ち上がって埃を払う彼女の制服は、まるで泥水に浸かったような状態。あちこちに泥がこびりつき、顔や手には傷を負っているらしく血が滲んでいる。
気遣わしげに見る彼にニッと笑って、彼女は乱れた髪をばさりとかき上げた。

「ま、よくあることよ」
「それだけでは分からないよ」
「んー。まあ、いいじゃない?」
「良い訳がないだろう?この傷は、相手がある傷だね?」
「……………。」

意外とそういう経験が豊富な彼を、誤魔化すことはできないのを知っているから。
少女は小さく息をついて、白状した。

「本当によくあることよ。……くだらない女の嫉妬、ってやつ?」
「なんだって!?」
「私が学園のアイドルやバスケ部のエースや関西の兄ちゃんやアンドロイド教師と仲いいのが、気に入らないんだって」
「……それで、君にこんなことを?他の女子生徒が!?」

まさか我が学園の生徒が、とショックを隠せない彼に、肩をすくめて応える。

「だから、こういうのは人が集まればどこででもあるんだって。気にしない方がいいよ」
「し…しかし……」
「ちゃんとお返しはしてきたからさ。5人殴り倒したら20人くらい連れてきたから、めんどくさくなって逃げたけど」
「な、な!?」
「大人数で羽交い締めするのは反則だよねえ。ったく」
「……くん……。」
「ん?」

唇の傷をぺろりと舐め、腕で乱暴に拭う彼女に、思わず大きなため息が漏れた。
無言でハンカチを取り出して水差しの水に浸し、こびりついた顔の血と泥を丁寧に拭き取る。
冷たい感触に一瞬眉を顰め、それでも大人しくされるがままになっている少女に、天之橋はどうにもやるせない表情で呟いた。

「君は、全く……もう少し穏便な方法はないのかね」
「あるわけないでしょ。集団で卑怯な方法しか取れないような奴らにどうしろって?」
「しかし……その、……君の交遊関係に口を挟むつもりはないけれども、せめて……ひとりに絞るとか」

ぽろりと言ってしまってから、しまったと口を噤んだけれど、後の祭りで。
少女はその言葉に、瞳を見開いて彼を見返した。

「……………」
「……………」

長く、沈黙が続く。
天之橋は必要以上にハンカチを折り返す動作をしながら、居たたまれない気持ちで目を伏せた。
本気で言ったわけではない。少女が彼らを友人として大切にしていることくらい、分かっている。
しかし、周りを気にして慎むということをしない彼女が、誤解されるほどに彼らと行動を共にしていることも事実で。
嫉妬しているとは思いたくないけれど、そこにほんの少しだけ、口が滑る要因があったかもしれなかった。

彼女は何を考えているのか読み取れない表情で、じっと自分を見つめている。

「……後は、保険医の先生に手当てしてもらいなさい」

ついに耐えきれなくなって、彼はハンカチをしまうと、まだ泥だらけの髪をそっと梳いた。
離れる前に、一瞬だけ。
頬の傷に口づける。

「保健室には連絡をしておくから、……?」

そのまま離そうとした彼の袖が、引かれて。
少しだけよろけた拍子に翻ったネクタイが、それよりも強い力で引っ張られた。
何が起こったか理解する前に目前5cmの距離に、強い光を湛えた瞳。
心臓が、どくんと音を立てて跳ねた。

「……私。他人に髪とか顔とか触られるの、嫌いだって知ってた?」
「え?」
「普通の人に触られたら、殴り倒してるとこ。気を許してる人じゃないと駄目なんだ」
「……え、っ?」
好きな人じゃないと、駄目なんだけど」

言い聞かせるように、そう告げて。
少女は呆気にとられる彼に向かって、平然と問いかけた。

「あなたは、好きでもない女にこういうことできるの?」

ひとりに絞るかどうかはその答えによって決めるから、心して答えろと。
そう言って、静かに瞳を閉じる。

、く………」

天之橋は、至近距離にある顔を狼狽して見返して。
かなりの時間躊躇してから、降参したように首を振ると、ゆっくりとその頬に手を添えた。
薄く開かれた唇に指で触れ、それでも彼女が反応しないことに、ため息に近い吐息を吐いて。
そのままかすかに唇を触れさせると殊更に難しい顔を作って、彼女の背中を抱き竦めた。

「……もう、ケンカになるようなことをしてはいけないよ」
「それは、他の男と仲良くするなってこと?」

すぐさま返された言葉に、表情を変えずに。

「君の身を案じているんだよ。顔に傷なんか作って、消えなかったらどうするんだ」
「別にいいよ、あなたは傷なんかで女を捨てるような人間には見えないから。それよりも」

さりげなく殺し文句を吐いて、少女は瞳を細めて笑った。

「ほんとうーに、ケンカが心配なだけ?それだけだったら聞かないけど」
「……………。」

その笑顔の圧力に、無駄な抵抗を試みてから。
天之橋はもう一度ため息をつくと、彼女の顎を掬って頬に口づけた。

「……他の男のために君が傷つくのは、耐えられない」

耳元で、聞こえるか聞こえないか位に囁かれた言葉を、満足そうに聞いて。
その胸にぎゅっと抱きついた少女が、さっきの失言の代償は何にしようかなどと考えているということを、平静を失っている彼は見通すことが出来なかった。


ちなみに。
その後、私立校らしく無駄に設備が整っている宿直室のバスルームで、泥だらけの彼女の背中を流す羽目になった人間が約一名、いたらしい。

FIN.

あとがき