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 アゲハ蝶 

「あぁん!もうっっ」

苛立たしげな、もどかしげな声を上げて、少女は花壇のそばから顔を上げた。
すでに、周りに群生する綺麗な薔薇も目に入っていない。ここがどこかも忘れているようだ。
「なんでよぅ!」
がさ、と薔薇のひとつに手を伸ばして、さらう動作をする。

そんな挙動不審な彼女を不思議そうに見ながら、近づく男が一人。
「どうしたんだね?」
「あっ……」
声を掛けられて初めて、少女は状況を思い出し、あわてて居住まいを正した。
「な、なんでもないです」
「……?待たせて悪かったね」
「いえ。でも、よろしかったんですか? 私ひとりでも大丈夫ですけど」
来客の予定を早々に切り上げてきた学園長を、少女はそう言って気遣う。
天之橋は彼女の頭に手を置き、くすぐったそうに身じろぎする髪をやさしく撫でた。
「君が薔薇の世話を手伝ってくれているのに、私が座っているわけにはいかない。
 それに……君と一緒にいられる機会を、逃したくはないからね」
甘い台詞に恥ずかしそうに目を泳がせた少女は、ふと、何かに気を取られたかのように視線を動かし、ちいさな呟きを漏らした。
「あ……」
天之橋がその軌跡を追うと、視線の先には

少女の心を奪っているものを確認して、天之橋はくすりと笑う。
「そうか。……悪いが、もう少し待っていてもらえるかな?」
「え?あ、天之橋さん?」
「すぐ戻ってくる」
それだけ言って、彼はすたすたと校舎の方へ歩いていった。

「……?」
彼の姿を追っていた少女は、やがて視線を戻して。
見咎める人間がいなくなったのをいいことに、もう一度、薔薇たちの上を浮遊するひとひらの生物に手を伸ばす。
しかし、まるで重力から解き放たれているかのような青い蝶は、少女の手をするりと抜けて瞬く間に逃げ去ってしまった。
「あっ、待って!」
追いかけようと思ったときにはもう、その姿は見えなくなっていて。
少女はがっくりとうなだれる。
「……うぅ……」
諦めきれなくて、きょろきょろと周りを見渡しているところへ、天之橋が戻ってきた。

子供みたいに蝶を捕まえようとしてるなんて、知られたくない。

少女は後ろ髪を引かれる思いで捜索を止め、足元にあったじょうろを持ち上げた。
まるで、今まで薔薇に水をやっていたとアピールするかのように。

「すまないね」
短く言うと、天之橋は少女の傍に立った。
いつもならすぐに薔薇の世話を始めるのだが、彼はその素振りを見せず、じっと薔薇を見つめている。
「あの…?天之橋、さん?」
少しだけ怪訝そうに、見上げると。
天之橋は無言で、ウインクしてみせた。
「???」
訳が分からないまま、少女は天之橋と同じ方向を見つめた。
すると。

「………あっ!」
先ほど見失った方向から、同じ個体と思われる蝶がひらひらと近づいてくる。
「蝶道と言ってね。特にアゲハチョウの仲間はよく、同じルートを行ったり来たりするのだよ」
瞳を輝かせる少女を眩しく眺めながら、天之橋は解説する。
「あれは、アオスジアゲハかな?綺麗な色だ」
言いながら。
すっと、右手を上げてふわりと振る。

「……?」
その行動に、首を傾げた少女は。
次の瞬間、驚きの叫びをあやうく飲み込んだ。


美しい碧い羽根を羽ばたかせながら。
その蝶が、引き寄せられるように彼の指にとまったから。

  

  
 

「わ……」
押し殺した声で呟き、少女は目を丸くして彼を見た。
視線が合うと、天之橋は目を細めて微笑む。
「これが見たかったんだろう?」
そう言われて、少女は思わずこくこくと頷いていた。
更に笑いながら、天之橋は指につけた蜜のようなものを示す。
「蝶はある種の匂いに反応するからね。一説には、求愛行動のときに雄が出す鱗粉の匂いに似ているということだが……
 もしそうなら、この蝶はプロポーズに惹かれてやってきたレディというところかな?」
蝶は柔らかく羽根を揺らしながら、じっとそこに留まっている。
それを感嘆の表情でのぞき込んでいた少女は、彼の言葉に一瞬ぴくりと肩を揺らして。
しばらくじっと蝶を眺めたあと、きゅっと彼の腕を抱きしめた。

「お…っと」
はずみで手が揺れ、途端に蝶が飛び立ってゆく。
それを見上げる少女に、彼は不思議そうな顔をした。
「……どうか、したかね?」
あの蝶が欲しかったのではないのか?と問う視線に。
「いえ、なんでもないです。近くで見てみたかっただけですから」
少女は目を合わさずに、言う。

彼が触れる全てのものに、独占欲を感じてしまう自分が恥ずかしくて。

「それより、早くはじめましょう!」
俯きがちに、唇だけで笑顔を作る。
天之橋は笑いを堪えながら、その頬に指を伸ばした。
「………?」
ひやりとした感触にふと、顔を上げた彼女に。
頬に塗りつけた蜜を拭き取るように、口づけを落とす。

「………あ……天之橋、さん? ど、どうしたんですか?」
脈絡のない行動に驚き、少女はうっすらと頬を染めた。
「いや、なんでもないよ。さて、始めようか?」
先ほどの彼女の台詞を繰り返した彼の瞳は、倖せそうに微笑んでいて。
訳の分からないまま、少女は小さく頷いた。


そして、彼が薔薇に向き合い、少女に背を向けたとき。
彼女はふと何かに気づき、次の瞬間、みるみるうちに顔を赤くした。

FIN.

あとがき