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 春を愛する人 

「氷室先生!」


その声に慌てて振り返ってしまう自分に、心の中で苦笑する。
他の生徒の声ならば、振り返る前に氏名と学年、その他諸々がデータとして頭の中に瞬時に浮かぶのに。
その少女にだけは考えるよりも早く体が反応してしまう。

「杏里。……コホン、何か用か?」
そして少女の名を呼ぶ自分の声は、思わずとても優しげな響きになってしまって。
慌てて取り繕い、普段の声に意識して戻す。
「はい、あの……もし他の御用がなかったら、明日、付き合っていただけませんか?」
「明日?日曜だな。特に予定はないが……」
「よかった!じゃあ明日、夜七時にバス停で!」
「夜!?ま、待ちなさい!杏里!!」
逃げる様に一目散に駆け出す少女の背中に急いで声を掛けるが、毎年体育祭で一位を獲る彼の優秀な生徒は、もう既に遥か彼方に走り去ってしまっていた。



「只今電話に出られません。メッセージをどうぞ…」

三度目の電話で、彼はため息をついて、機械的な音声の後に続けた。
「私だ。……夜出掛けるのは好ましくない。私は遠慮させてもらう。君も早く休みなさい……では。」
電話を切った後、彼は自宅のソファに深く沈みこんだ。

出来れば、話をしてやんわりと断りたかったが……誘われたのが土曜の帰り際で。
そのまま帰宅してしまったらしい彼女の携帯に電話をしても、同じ音声が繰り返されるばかり。
20秒というあまりに短い時間では、せめて「生徒」という単語を入れずに用件を伝えるのが精一杯だった。
しかし。

何か余程の事があるのか?
冷た過ぎるのではないか?

無下に断った事に心が痛む。
彼女の自分に対する想いを知っているから。
そして自分の気持ちも。

 

◇     ◇     ◇

 

次の日は雨だった。
カーテンの隙間から外を見て、落胆のため息をつく。

思い返せば、少女が自分から誘ったのは初めてで。
それを断らなければならない自分の立場と性格に苛立ちが募る。
そして、連れていった先々での少女の嬉しそうな笑顔を思い出しては、苛立ち以上に後悔と自責の念が彼の心を締めつけた。
気を紛らわそうと本を開いて、2、3行活字を追ってはため息をつき、コーヒーを淹れにキッチンへ立つ。
やまない雨音に急かされるようにテーブルの上の携帯を取り上げたのも二度や三度の事ではない。
もし彼女から電話があって、どうしてもそこへ行きたいのだと乞われれば、『夜の一人歩きは危険だから仕方なく付き添いとして』という理由が出来るのに。
その電話は自分からする訳にはいかなくて、しかも彼女は自分の電話番号を知らない。
従って、彼女からかかってくる事はない。

何度も同じ事を考え、同じ結論に達し、深いため息をつく。
一日中気もそぞろに雨音に耳を澄ましそんな事を繰り返していた彼が、ふと一点を凝視した。

『もし彼女がメッセージを聞かなかったら?』

ほぼ有り得ない事だが、やっとそこへ行く理由が見つかり慌ててキィを取ったのは、約束の時間を一時間も過ぎてからだった。


ラッシュアワーを大幅に過ぎた時間帯、空いている道路をアクセルを思い切り踏み込みそこへと急ぐ。
春まだ浅い、雨の夜。約束の時間はとうに過ぎている。しかし少女は自分を待ってそこにいる。
そんな確信が彼を急がせる。
いつもなら必ずペダルを踏み変える黄信号にも構わず車を走らせ、普段かかる半分の時間で約束の場所に滑り込んだ。

「杏里!!」

そして、彼女はそこにいた。
バス停の一番端のベンチの隅に小さくなって。
駆け寄る足音と自分の声に、ばっと顔を上げ、その瞳がみるみるうちに潤んでいく。

「どうした!?何かあったのか?……すまない、遅れてしまって……」
やはりメッセージを聞かなかったのだと思い、しかし改めて言うともっと傷つけるような気がして、取りあえず遅れた事を詫びると、彼女はぷるぷると首を振った。
「……電話…聞きました。……ごめ……なさ…こんな時間……」
泣き出してしまった彼女の前に膝を折り、冷え切った手を両手で包む。
そんな動作が照れもせず、理性の抑制もなく出来たのは、夜の闇と今日一日恨み続けたこの雨とが、自分達を隠してくれるような気がしたから。

「では何故ここに?……泣かなくてもいい、訳を話してくれないか……?」
彼女がたどたどしい泣き声でぽつりぽつりと話す言葉を拾い繋げると、その理由がようやく彼にも呑み込めた。

どうしても自分と一緒に見たかった物があった事。
それは今日しか見れなくて、しかも雨だと見ることが出来ない。
メッセージは聞いたが、どうしても諦めきれずにここにいた事。
後は、こんな時間に無駄足をさせてしまったと何度も何度も謝るばかり。

「もう泣かなくてもいい。……体が冷え切っている。車に乗りなさい。」
彼女を車に乗せると、ヒーターの目盛りを最大にして自分の上着を細かく震える彼女の肩に着せかけた。
「先生、いいです!……先生が……」
「いい、私は大丈夫だ。……風邪をひく、着ていなさい。」
まだ涙目のまま慌てたような声色になる彼女を遮ってそう言うと、ギアを入れアクセルを踏んだ。
「……もうすぐ雨はあがる。そうすれば君が見たかったものが見れるだろう?」
「え?」
「私の予報は計算されたものだ。西からの風が吹いている。あと30分もすれば間違いなくあがるだろう。……安心しなさい。」

数十年に一度というその光景を見上げて、彼はあの日のように、少女を振り返った。
「流星群……これが見たかったのだろう?……そしてこの場所へ来た理由は、私と君が初めて二人で来た場所だからだ。」

期末テストをほぼ徹夜で採点した自分の顔色をうかがってここに連れて来てくれようとした少女。
そしてやまない雨に流した涙を、彼は素直に愛しいと思った。
少女はそっと彼に歩み寄り夜空に目を奪われたまま、言葉を探すように告げた。
「……すごく、嬉しいです。……こんな…本当に見れるなんて………」 

何の音もたてず、ただ空いっぱいに流れる星屑を見上げながら、手に伝わるほのかな温かさと肩にかかる少しの重みに気がつかないふりをするのが、その時、最大限表し得る自分の気持ちだと、彼女は気がついてくれただろうか……?

 

◇     ◇     ◇

 

「……?」

外から差し込むやわらかな朝の光に目を覚ました彼は、身を起こそうとして片手の自由が効かない事に気がついた。
そこには先程まで夢に見ていた彼女が、自分の腕を抱き込んで安らかな寝息をたてている。
やわらかなウェーブのかかった栗色の髪が少し大人びた顔を縁取り、それを見ている彼を現実の幸福に引き戻した。
彼が額に、夢の中では許されなかった口づけを贈ると、愛しい人はふっと薄く目を開けた。

「……あ…せんせぇ、おはようございます………」
彼はクスリと笑って唇にキスをした。
「あ、ごめんなさい……零一さん」
無意識だとまだ昔の呼び名が出てしまう彼女は、恥ずかしそうに言い直し、今まで抱いていた腕をくぐって彼の胸に頬を寄せた。

「君の夢を見た。昔の……」
くぐられた手に、もう片方の手を重ねて抱きしめると、くすぐったそうに肩をすくめる。
彼はもう一度口唇にキスを贈った。


今は全てが許されている。
愛する事も。
愛される事も。

FIN.

あとがき