少しだけ、躊躇って。
少女はいつものように、ドアをノックした。
すぐに応える声。
けれどその声音はやっぱりいつもとは違っていて、思わず怯む。
その所為で開けるのが遅れた目の前のドアが、一瞬後に中から開けられた。
「どうぞ」
「あ……は、はいっ」
ドアは直角に開かれて、その先に控えるように立っている、見知った笑顔。
めったに学園には来ないけれども、いつも礼儀正しく対応してくれるその人に慌てて笑顔を返して、少女は礼を述べながら室内に踏み込んだ。
正面の執務机で書き物をしていた天之橋が、顔を上げる。
「水結」
「こんにちは、天之橋さん。あの……お忙しいのは分かっているんですけれど、お茶だけでもどうかと思って」
机の上には、大量の書類。それでも散乱するようなことのないそれには、性格が現れているのかもしれない。
そんなことを考えながら、急いでテーブルにティーセットを置くと、微笑んだ言葉がかけられた。
「有り難う。嬉しいよ」
「えっと、それだけなんです。……じゃあ」
彼が忙しいのは知っていた。学園関係ではなく、経営している会社関係の仕事が大詰めを迎えて、ここのところ寝る暇もなく執務をしているらしい。
そんな中、お茶会をしようなどと我が儘を言う気はなかった。
ただ、少しでも疲れを癒して欲しくて、お茶を飲んでもらおうと思っただけ。
けれど次の言葉を聞いて、少女はそれを後悔した。
「ああ、水結。少しだけ待ってもらえないかな?」
「……え?」
「あまり時間は取れないけれど、もう少ししたら一段落するから」
そう、彼が言い出すことが、予想できなかったわけではないのに。
少女が表情を曇らせると、それを見透かしたように苦笑して、天之橋は席を立った。
「君に気を遣っているわけではないよ。自分でも休みを取らなければと思っていたところだったんだ。
一人よりも君と一緒に飲む方が、ずっと楽しいから」
テーブルの脇に立つ、不安そうな彼女の手を取って、口づけを落とす。
彼が瞳を上げて覗き込むと、まだ迷いながら、少女はこくんと頷いた。
「では、書類を届けてくるからね。少し待っていてくれ」
「はい」
そう言って歩き出す彼の前に、秘書の姿。
その存在を忘れていたことに少しだけ苦笑しながら、天之橋は手にしていたファイルのひとつを渡した。
「榊、この書類を……」
「心得ております。社の方は全て処理しておきますので、お任せ下さい」
「ああ、頼む」
もう一度振り向いて微笑むと、天之橋は秘書と共に部屋を出て行った。
ひとりになった途端、思わずため息が漏れた。
やっぱり無理にでも固辞するべきだったかもしれない。仕事が忙しい時に、それでも時間を割いてくれるのは嬉しいけれど、どうしても邪魔になっている気がして心苦しい。
彼にとって、自分が何の役にも立てていないとは思いたくないけれど。
それ以上に彼が気を遣ってくれていることが、分かっているから。
ソファに悠々と座って待っているのも嫌で、少女はくるりと辺りを見回し、何とはなしに歩いて執務机に近づいた。
部外秘のものがあるかもしれないので書類は見ないようにしながら、こっそり椅子に座ってみる。
新鮮な眺め。
自分が入ってきた時、彼からはこんな風に見えているのかと思うと、少しだけ恥ずかしくなった。
「……天之橋さん」
ふと思いついて、小さく呟く。
「この書類は、私の方で処理しておきましたからね」
有能な彼の秘書が、いつも当たり前のようにやっていること。
それが羨ましくないと言えば嘘になる。
「いいんですよ、それが私の仕事ですから。それよりも早く終わった分、お休みになって下さいね?」
そんなことが言えるほど、彼の手助けができたら。
現実との違いにもう一度ため息を漏らしながら、少女は無意識に机の上の羽根ペンを取り、メモ帳に描かれるきれいなラインを肘をついて見つめた。
どんな形でも良いから、自分があの秘書ほど役に立てる日は来るのだろうか。
仕事面で敵うとはとても思えない。ただ気持ちを安らげるために傍にいるだけなんて、自分が自分でないのと一緒。
料理だって掃除だって、もちろん人並みには出来るけれど、あの屋敷にいるプロ以上に上手くできるとも思えなくて。
それでも。
いつか、あの人のためにそれをして喜んでもらえるようになれればいいのだけれど。
そこまで考えて、少女はひとり赤面して。
「……天之橋さん………大好き」
自分で呟く声に、自分で照れた。
◇ ◇ ◇
「すまない、水結。ずいぶん待たせてしまっ……」
焦った声で弁解しながらドアを開けた天之橋は、中の光景を見て口をつぐんだ。
くすりと笑って、彼女を起こさないようにそっと近づく。
自分の執務机に突っ伏して、安らかな寝息を立てている少女。その寝顔はいつもに増してあどけなくて、まるで子供のよう。
けれど、抱き上げてソファに移そうとして躊躇ってしまうほどには、自制心が必要で。
天之橋はそれを確かめるように首を振り、初めて机の上にメモに気がついた。
自分の羽根ペンで書いたらしい、くるくると丸っこい落書きに目を細める。
同じペンを使っても、こうも線の印象が変わるのかと妙な納得をした時。
ふと。視線が止まり、目が見開かれた。
「…………」
戸惑ったように口に手をやって、しかし、どうしても弛んでしまう口元。
天之橋は、そっと彼女を窺うと、それを見たことが知れないようにメモをポケットにしまった。
少女が知ったらきっと、顔を真っ赤にして泣き出してしまうから。
「ん…ん、……ぁ…ま……」
抱え込んで抱き上げると、少女は小さく呟いて眉を顰めた。
「水結?」
起こしてしまったかと呼んでみるけれど、答えはなくて。
代わりにするりと腕に手を回され、抱きかかえるようにしがみつかれた。
「……これでは、仕事が出来ないのだがね。やはり休めということかな?」
ふわふわと微笑む彼女が眠っているのを確認して、笑いながら囁く。
少しだけ、考えて。
天之橋は少女を抱いたまま机に戻り、抱えられていない手で書類を取り上げた。
ソファに座って彼女を横抱きにし、片腕を抱き込まれたままで、書類に目を通し始める。
先程まで内心苛立っていた気持ちは、凪のように穏やかで。
まだ引き締まらない自分の口元に気づいて、天之橋はポケットに手を入れ、もう一度先程の紙片を取り出した。
戯れな落書きなのだからと、浮き足立つ気持ちを諫めながら、それでも笑みが止まらない。
メモのすみっこに、普通なら気づかないくらい小さく書かれた文字。
彼の名字。それと微妙な距離を保って並べられた彼女の名前。
腕の中でねむる少女をちらりと盗み見て、天之橋は頬の火照りを誤魔化すように、小さく咳をした。
FIN.
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