「い、た、たたたたた」
突然聞こえた呟きに、天之橋は慌てて車を止めた。
助手席では、先ほどまで笑って話をしていた少女が、顔を顰めて俯いている。
「み、水結?どうした?」
慌てる彼に、少女は片目を押さえたまま顔を向けた。
「あ、たいしたことないです。大丈夫」
「大丈夫って……目が痛いのかね?病院に行くかい?」
焦って先走る彼を安心させるために、笑ってみせる。
「いえ、本当に大丈夫です……ちょっとホコリが入っただけですから。
最近、パソコンの使いすぎでドライアイになっちゃってて、目が乾いてるんですよね」
うー、と上を向いて目を瞬かせる彼女に、とりあえず安堵して。
けれどまだ心配そうに、天之橋は言葉を継いだ。
「目薬は持っていないのかね?」
途端に、少女の身体が強張って。
不思議そうな彼に、極小さな声。
「い…いえ……持ってます、けど」
「それなら、はやく差した方がいい」
「いえ……あの、でも……」
「ああ、そんなに擦ってはいけないよ。傷がついたら大変だから」
「でも……」
逡巡して、躊躇って。
けれど、何も言わないでは済ませられなさそうな状況にため息をついて。
白状する。
「……あの。目薬って……怖くないですか?」
「………え?」
一拍置いて返される返事に、知らず頬が赤らんだ。
「だっ、だって、気持ち悪いじゃないですか!目に入れるんですよ?冷たいし染みるしっ」
「……………」
あっけに取られていた彼が、少しだけ自重するような顔をした。
ここで笑ったら。間違いなく、むくれて口をきいてくれなくなるから。
そんな心情を見透かしたように、早くもつむじを曲げそうな表情で、少女はぷいと目を逸らした。
「いいですよ、笑いたかったら笑っても。どーせ子供ですからっ」
「そんなことはないけれど……」
抑えられず弛む口元を手で隠して、言葉を探す。
「でも、普段はどうしているんだい?ドライアイなら、日に何度も目薬を差さないと駄目だろう?」
「……家には、小さいカップで洗う洗浄液があって、それならまだマシで。
無いときは我慢して尽とか友達に入れてもらうんですけど……それもやっぱり、怖くて」
まだ痛いのだろう、ハンカチを取り出して押さえながら返される返事に、ぴたりと笑いが途切れた。
「……友達……とは?」
少しだけ引き攣ったような問いに、今度は少女が不思議そうに見る。
「え?なつみんとか……タマちゃんとか」
言われた台詞に、納得すると同時に苦笑が浮かんだ。
「そ、そうか。それは大変だね」
取り繕うように相づちを打った、彼に。
「でも、なつみんはテキトーにだばっと出すんで怖くて、タマちゃんは恐る恐るなんで余計怖くて。
意外と一番上手いのは珪くんなんですよ」
無邪気な彼女の呟きがこだました。
「珪くんって、なんかそういうときは面倒見よくて、さっと終わらせてくれるんです。
普通、こういうのだったらまどかくんだと思うじゃないですか。でもまどかくんは、自分も苦手だからってあんまりアテにならなくて。和馬くんはタマちゃんと同じですごく恐る恐るだし、色くんは……」
「…………貸してみなさい」
「え?」
話途中で挟まれた台詞に彼を見ると、苦虫を噛み潰したような表情をしていて。
訳が分からなくて戸惑っていると、ため息をつきそうな感じの言葉が掛けられた。
「家までずっと我慢するわけにはいかないだろう?」
「……!」
意図を悟った少女は、思わず遠慮のない声量で叫んだ。
「え、ええええ!?い、いいです、そんなっ」
「いいから。少し、我慢しなさい」
「で、でもそんな、天之橋さんのお手を煩わせるなんて!」
「私では役に立たないかね?」
「は?」
「い、いや。君が痛がっているのに放っておくわけにはいかないから。ほら、見せてごらん」
すっと顎を支えられて、仰向かせられる。
あ。と思った瞬間には、今までになかった距離に彼の顔があって。
少しだけ心配そうに、でも優しく見つめる瞳は、彼の誕生石に白を混ぜたような瀟洒な藤色。
愛と真実と情熱と誠実、そして高貴さを象徴するその宝石の色は、彼にとても似合っているように思えた。
こういうのを、綺麗、っていうんだろうな……。
「……そんなに零れそうに目を見開くと、ますます痛くなってしまうよ?」
囁かれた声に我に返ると、至近距離の瞳が可笑しそうに細められている。
急に恥ずかしくなって、少女はあたふたと狼狽えた。
「あ、あの、大丈夫ですから!もう全然……痛ッ!」
「こら、無理をするんじゃない。いいから目薬を出しなさい」
「いえ、ほんとに、もう……」
きゅっと目をつむっても、痛みは消えないけれど。
これ以上この状態でいたら、のぼせてしまいそうだ。
顔を真っ赤にして固辞する彼女にため息をついて、天之橋は固く閉じられている目の下に指を当てた。
「……全く……仕方のないお嬢さんだ」
「え」
ふと、声が近くなった気がして、反射的に瞳を開くと。
さっきの比ではないくらい間近にある彼の唇がふわりと解けて。
ちゅ、というかすかな音と共に目元が暖かく潤う感触。
「…………ふ、ぁ」
思わず漏れた声にも、気づけずに。
呆然とする彼女に、天之橋はくすりと笑った。
「あまり衛生的ではないけれど、君の遠慮に付き合っていたら日が暮れてしまうからね。
……まだ痛いかい?」
呆けたまま、ゆっくりと首を振る。
痛みなど、もう感じている余裕がなかった。
「それはよかった」
丸くなったままの瞳に、もう一度微笑んで。
天之橋は、紅潮している頬に、改めて口づけを落とした。
FIN. |