「えっ、天之橋さん、外国に住んでたことがあるんですか?!」
必要以上に叫ばれる声に、驚きを返す。
「あ、ああ……学生時代に少し。……どうかしたのかね?」
ぽかんと開けた口が、閉じられるまでに数瞬。
少女は我に返ってソファに座り直すと、訝しげな視線にぷるぷると首を振った。
「………なんでもないです」
どう見ても、何でもなくはない態度。
少しだけ首を傾げて、天之橋は言葉を継いだ。
「まぁ、そうは言っても知人の所を転々として、きちんと定住していたわけではないんだが」
「でも、それだけ外国にお知り合いがいたって事ですよね……学生時代に」
「……?」
なんだか落ち込んでいる様子の少女。
理由を知りたくて、でもこれ以上踏み込んだら彼女が嫌がるかもしれないと思って追求できない。
今日の彼女は、最初から少しおかしかった。
彼の身の回りの話や昔の話を聞きたがり、茶飲み話だと思って気軽に話す彼に一喜したり一憂したり。
それも、いつものように微笑んで聞くのではなく、まるで試験の範囲を聞くときのように真剣に応じる。
おそらく何かあったのだろうなと想像するのは難くなかった。
「……だってそんなの……あんまりにも……」
一人でぶつぶつと呟いている彼女に、つい興味の声が抑えられなくなった。
「どうか、したかね?今日はいつもと違っているようだが……何かあったのかな」
「え?」
その言葉で初めて彼の疑問に気づいたように、少女は目を瞬かせると、少し頬を染めて首を振った。
「あ、あの、いえ。何でもないんです!」
「なんでもない、ようにも見えないが。……話しにくいことなら構わないけれど」
「い、いえ。そういうわけじゃ……」
口ごもる彼女の言葉を、待つ。
少女はもじもじとティーカップをいじったりしていたが、一つ息をつくと、上目遣いで話し始めた。
「あの……今日、なつ……藤井さんと話していて、たまたま天之橋さんの話になったんです」
「私の?」
予想していなかった言葉に、少し驚く。少女は慌てて手を振った。
「あ、ヘンな話じゃないんです!その……始めはなつみんが氷室先生の話をしてて。ご両親ともピアニストだったとか、若い頃は演劇をやってたとか。
なつみんはせんせぇに張り合ってますから、情報収集に余念はないんですけど」
話の流れで、奈津実はふと、彼女に聞いたのだ。
『そう言えば、理事長って昔、何やってたの?趣味とか?』
それに答えを返そうとして。
頭が真っ白になった。
彼の趣味は、クラシック鑑賞に水泳。クルージング。
観戦するなら、チーム競技。
手の込んだ料理が好きで、肉の脂身が嫌い。
テレビはほとんど見なくて、深夜のニュース番組くらい。
彼についてのそんな情報は、実は情報通の奈津実だって知っている程度のこと。
それ以上のことを、自分は何も知らない事に気づいた。
『なに、毎日毎日あんだけ通い詰めてて、何にも知らないの?いっつも何話してるわけ?』
少しだけあきれた奈津実の言葉に、言い返せない。
考えてみれば、彼と話すことといえば、薔薇に蕾がついたとか先日行った公園でのこととか、他愛ないことばかり。
それがイヤだと言うことではないのだけれど。
一緒にいるときの彼しか知らないというのは、あまりにも情けないような気がした。
「……その流れで天之橋さんのこと聞かれて……私、あの、いっつもお邪魔してるのに何にも知らなくて……」
言ってしまってから、しまったという顔をして慌てる。
「あ、詮索とかじゃないんです!ただ、いつも他愛ない話しかできないから、もしかしてご迷惑かもって……少しでも共通の話題があればなあって」
しかし、ただでさえ年が離れている上、片や資産家の跡取り息子、片や中流家庭の小娘。
共感できる話よりもできない話の方が多く、しかも彼の学生時代の話ですら今の自分とはかけ離れている。
それに、思わずため息が浮かんだ。
そして天之橋も、少しだけ後悔していた。
彼女が昔の話を聞きたいというので、話題になりそうな奇をてらった話を選んでみたのだが、どうやらそれは逆効果だったらしい。
しかし、自分のことを知りたい、気持ちを共有したいという彼女の言葉は、彼にとって嫌なものではなくて。
沈んだ様子の彼女には悪いけれど、頬が弛むのを抑えることが出来なかった。
「ふむ。……では、君に訊くが」
組んでいた足をほどき、お茶を手に取る。
「例えば、君の言う他愛ない話……そうだね、うちの薔薇たちがそろそろ満開だから見においでとか、そういう話を。
藤井くんにしたら、どういう答えが返ってくると思う?」
「え?」
突然の問いに、目を丸くして。
それでも答えを躊躇うのは、親友の回答が予想出来ないからではない。
「え……と……」
「構わないよ。言ってごらん」
微笑まれて、おずおずと答える。
「なつみんだったら、たぶん……“なんでわざわざ?薔薇なんてどれも一緒じゃない?”……と、か?」
「まぁ、そんなところかな」
気分を害さないか心配そうな彼女にくすりと笑って、紅茶をひとくち飲む。
「で。君もそう思うかい?」
少女は途端にぶんぶんと首を振った。
激しい反応に、天之橋の目が細められる。
「それが、共感できる話題だと思うのだが……違うかな」
「………あ」
初めて意図を察したように、少女の目が丸くなって。
急いで、頷く。
「藤井くんの態度がいけない、と言うわけではないよ。違う価値観を持つ人は、いつでも新鮮な世界を見せてくれるから。
でも、価値観が同じ人はそれだけで、話をしていて楽しいものだ……君のようにね」
さら、と確かめるように髪を梳かれて、もう一度頬が赤らむのを感じた。
そんな彼女に、ますます目を細めて。
「正直、私の方が君のことを理解できているかどうか、不安になるね。君はいつも、真っ先に他人のことを考えてしまうから。
もう少し我が儘を言ってくれれば、私も安心できるのだけれど」
からかうように言うと、少女は拗ねた表情になった。
「それは……天之橋さんだって、一緒です」
彼になにかをお願いされたり望まれたりした覚えなど、数えるほどしかない。
確かに、自分みたいな子供に叶えられることはほとんどないかもしれないけど、我が儘を言われないのが不安だと思うのなら自分から実践したらいいのに。
そう、むくれて呟く彼女に、苦笑する。
「これは手厳しいね。……いいのだよ、私は。いつも君には願いを叶えてもらっているから」
少女はいつも、当然のように彼が望むだけ傍にいて。
しかもそれは、彼が望むからではなく彼女自身がそうしたいのだという理由で、口に出して願うまでもなく現実のものとなる。
それだけでもう、十分すぎるほど満ち足りているのだと告げたとしたら。
彼女は冗談だと思って、そんなことが我が儘だなんて言わないでくださいと、きっと憤慨するのだろう。
だから。
彼はほんの少しだけ、常より欲張りになることができる。
「……?」
不思議そうに首を傾げる少女に、何も言わず微笑んで。
天之橋は、テーブル越しに彼女の手を取り、口づけを落とした。
「では……ひとつだけ、我が儘を聞いてもらおうかな。
うちの薔薇たちがそろそろ満開なのだけれど、今度の日曜の予定は?」
未来を彼女と共有すること。
そんな分に過ぎるかもしれない願いを、口にするのに。
少女はいつも通り恥ずかしそうな笑顔で、嬉しいです、と呟いた。
FIN. |