「あっ、せんせぇ!?」
少女が驚いてあげる声を、天之橋は一瞬現実のものでないように聞いた。
けれど、それが現実である証拠に、彼女の見つめる先に自分の学園の数学教師の姿。
思わず、彼女の背中に回した手を外した。
「どしたんですか、せんせぇ!」
「私は校外指導を終えて帰るところだ。……君は」
「わたしですか?えへへ、でーとです〜」
彼の腕に甘えて抱きつくのに、一瞬あからさまに眉を顰めて。
それを繕うようにコホンと咳をし、氷室は厳しい目を天之橋に向けた。
「……女性を連れ回すには、少し時間が遅いのではありませんか?」
「いや……その、少し食事が長引いてね」
冷や汗を流しながら答える天之橋に。
「え?うそ。デザートもたべさせてくれなかったじゃないですか!
もー、わたし、よってないっていってるのに……」
「あ、み、水結!」
慌てて止めても、後の祭りで。
氷室の瞳が、一気にきつくなった。
「……確か……彼女はまだ未成年だったと記憶していますが。私の、記憶違い、ですか?」
「い……いや……」
「未成年に飲酒をさせるなど、教育者としても保護者としても失格だと思いますが。あなたの倫理観は一体どうなっているのか、お聞かせ願えませんか」
「それは……その」
氷のような弾劾の言葉に、どうにも反論できない天之橋を見て。
少女はパッと彼の前に出ると、後ろ手で庇う仕草をしながら氷室を睨み付けた。
「あまのはしさんをいじめちゃだめです!」
「な……!」
平素とは違うその様子に面食らって言葉を無くした後、氷室は焦ったように指で眼鏡を押し上げた。
「い、苛めてなど、いない。ただ、保護者としての責任を……」
「ちがいますよーだ。あまのはしさんはほごしゃじゃないもん。あまのはしさんは、こいびとだもん。
かんけいないひとがぁ、こいびとどうしのことに、くちをださないでください!」
「………!!」
「もー、せんせぇなんてしらない。あまのはしさん、はやくいきましょう!」
「ま、待て!こんな時間からどこかに行くのか?!」
思わずそう、訊いてしまった氷室に。
少女は拗ねた視線を浴びせながら、可愛らしく舌を出した。
「べーだ。わたしはこれから、おとまりしてすごくいいことをしにホテルにいくんですぅ!
すっごくおいしーんだから。せんせぇになんか、わけてあげないんだから!」
「「……!!」」
脈絡のないその台詞の本意が、分かっている者と分からない者と。
共に、頭痛を訴えるような表情で額を押さえた。
しかも、いつの間にかまた泊まることになってしまっているのは、どういうことだろうか?
二人の様子に構わず、まだ苛立ちが納まりきらない様子の少女は歩き出そうとして足をもつれさせた。
どた、と。
傍の彼の手も間に合わず歩道に尻餅をついてしまい、更に苛立たしげにえい、と地面を殴りつける。
「もー!なんでちゃんとあるけないんですかあ!このみち、おかしい!」
いやおかしいのは君の方なんだよ、と言いたいのを堪えてため息をつき、天之橋は彼女に手を差し出した。
「ほら。掴まって」
「……………」
見上げる瞳に、何かを考える色。
彼女がこんな目をするときは、大抵とんでもないことを言い出す前兆と天之橋が察するか察しないかのうちに。
「あまのはしさん」
差し出した手ではなく、自分の首の方に向けて、両腕が差し伸べられた。
それに、一瞬どころでなく躊躇する。
彼女の要求は分かりすぎるほど分かるし、今まで何度も許してきたけれど。
振り向かないでも感じる痛いくらいに突き刺さっている、冷たい憤怒の視線の前で同じことが出来るほど、神経がないわけでもない。
けれど。
ここでそれを拒否してしまったら、この上どんな駄々を捏ね出すか分からなくて。
何よりも、拒まれた彼女が裏切られたような切なげな表情になって瞳を潤ませるのを、一度体験してしまっているから。
だから。
結局、天之橋はもう一度深いため息をつくと、身を屈めて彼女の体に手を回した。
きゅっ、と首に手が絡められて、そのまま抱き上げると満面の笑顔が至近。
すっかり機嫌を直した彼女が嬉しそうに笑うのを見て、天之橋の表情も思わず弛んだ。
「じゃあね、せんせぇ。またね」
先程の怒りなど忘れてしまったかのように挨拶する彼女に、氷室は唖然としたままだった。
おそらく何か言いたくても声が出ないのだろうなと、そちらを見ないようにしながら思う。
未だ彼女に気持ちが残っていそうな、この厳格な数学教師に、色々誤解をされたままで。
さて、明日からの学園生活は、どう変わるのだろうか?
他人事のような諦めの気持ちを見透かしたように、少女はぶんぶんと手を振りながら叫んだ。
「それと、わたしのこいびとをいじめたら、ゆるしませんからね〜!」
素面の彼女では絶対に言えないそんな台詞に、知らず苦笑が浮かぶ。
照れて恥じらういつもの彼女はもちろん可愛らしいのだけれど、こんな風に奔放な彼女も嫌いではない。
そんなことを考えつつ、視線の先に呼んだハイヤーを確認し、天之橋は振り向いて微笑んだ。
「ではね、氷室君。失礼するよ」
もしかして自分は、こういう類の状況に慣らされつつあるのかもしれないと思いながら。
FIN. |