「天之橋さん!!」
幻のような声が、急にはっきりと聞こえて。
目を開くと、見慣れた天井と、泣き顔。
その顔が、横にいる誰かに向けられて。
「過労と、睡眠不足。倒れて当たり前ね」
その言葉に我に返って、少し身を起こす。
「理事長。こんな生活をしていては、お身体を壊しかねませんよ。
あなたも……少し、気をつけてあげなければ駄目よ。傍で見ていれば、無理をしているのは分かるでしょう?」
養護教諭の言葉に真摯に頷く少女に苦笑して、天之橋はソファの背もたれに身体を預けた。
「……彼女の所為ではありませんよ」
お手数を掛けてしまって、と謝りながら弁明すると。
養護教諭は厳しい瞳を緩和させて、わざとらしくため息をついた。
「今日は、ゆっくり休んで。明日からも休養時間をきちんと取ってください」
それだけ言って、部屋を出て行く。
一人残った少女に、天之橋は少しだけぎこちない微笑みを浮かべた。
「その……すまなかったね。藤井くんが知らせてくれたのかい?」
「……は、い」
少女も、少し辿々しい返事を返す。
「最近、仕事が立て込んでいて……幾分無理をしすぎたかもしれない。
……君のお茶も、飲めなかったから」
思わずそう、戯けてしまってから。
また拙いことをと、自らを窘める表情。
少女は涙を残したままで、くすりと笑った。
「お茶……淹れましょうか?」
その顔色に、この場限りではない窶れを見取って、天之橋は息を呑んだ。
目の下には、らしくないファンデーションで隠された、陰翳。
奈津実の言葉を証明するような、それら。
あの時からずっとそこにあるポットを取ろうとする手を、思わず掴んでしまってから。
自分の行動に気づき、一瞬だけ迷って……心の中で足を踏み出す。
それが正しいことなのかは、まだ分からないけれど。
今までとは異なるベクトルの。
小さいけれど、大きな一歩。
「いや。お茶は要らない」
その言葉に、不安そうに揺れる瞳を捉えて。
「その代わり、君の時間の空いたときに……私も時々は、仕事で応じられないかもしれないけれど」
「……えっ?」
「きちんと、約束を。させてほしい」
「天之橋さん??」
意味が分からず、戸惑う少女に。
天之橋は少し緊張した面持ちで、掴んだ手を持ち上げた。
「君のお茶ではなくて、君自身と共に在ることが、私にとっては何よりも嬉しいから。
だから、都合のつく時だけでいいから……私とお茶会の約束をしよう」
「約…束?」
持ち上げられた手と、常ではない彼の様子を交互に見て。
少しだけ、考える表情。
この期に及んで何かを言い出しそうな少女の手に、天之橋はキスを贈る。
今はまだ、口に出せない感情を。
できるだけ、包み込めて。
今までに何度も受けたことのあるその仕草に、少女は常以上に頬を赤らめて。
そうして、やっと。ふわりと微笑んだ。
「……はい。……天之橋さんがよろしければ」
微笑みあったその時。
とんとん、と控えめなノックがした。
天之橋は、思わず席を立ちかける少女を制し、ドアを開けて。
外の来客に、穏やかな微笑みを向けた。
「……来てくれて嬉しいんだが……」
チラリと肩越しに後ろを見ると、少女は鞄を引き寄せて立ち上がり、すぐ帰れる体勢を作っている。
その無意識の気遣いに、笑って。
「これからずっと、放課後は予定が入ってしまったんだ。だから、申し訳ないのだが」
落胆する表情に、心が痛むよりも。
はらはらしているであろう、背後の気配が気になる。
一生徒を気遣って彼女を失くすようなことにならなくてよかったと思うのは、あからさまな好意を向けてくれている目の前の女子生徒にとって、残酷かもしれない。
けれど。
少女は自分にとって、ただの生徒ではないから。
「すまないね」
微笑んで、謝って。
首を振って一礼する女子生徒の前で、ゆっくりと扉を閉めることくらい、簡単に出来る。
そうして。
少し頬を紅潮させて立ちつくす少女に。
天之橋は極上の笑みを向け、肩をすくめて見せた。
◇ ◇ ◇
「さて。今日は……誰かと約束はあるかね?」
すっかりいつもの調子に戻ったその問いに、少女はあっ、と声を上げて。
途端に、申し訳なさそうな表情になった。
「あ…あ、の。さっきちょっと、……珪くんに……」
こんなことになるなんて思わなかったから、と口ごもる彼女に、笑って。
「いや。構わないよ」
「あ、あのっ!でも、私……!」
いつもの遠慮の言葉を予想して、慌てて断ってくることを告げようとした少女に。
身をかがめて視線を合わせながら、囁く。
「他に約束があっても、構わない。私と一緒に帰らないかね?」
「……え」
今まで聞いたことのない台詞に、絶句して。
少女はぽかんと口を開けたまま、目を瞬かせた。
その様子にくすりと笑って顎を捉え、ゆっくりと頬に口づけて。
「駄目かな?」
彼女が断るはずがないのを分かっていて、耳元で問う。
吹きかかる息に身を竦ませて、頬を染めた少女は、しばらく答え方を逡巡した後につと彼の服を掴んだ。
俯いていた顔を恥ずかしそうに上げて、彼の耳に口を寄せる。
「そう、言って頂けて嬉しいです……」
蚊の鳴くような声で、告げた彼女は。
彼が瞬間、抱きしめたい衝動を必死で堪えたことなど知る由もなく。
無邪気な顔で、倖せそうに笑ってみせた。
FIN. |